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ぼけますから、よろしくお願いします。

今日のザ・ノンフィクション。「ぼけますから、よろしくお願いします。」の続編だった。

わたしは映画を見たことがなく、本を読んで知った。
ドキュメンタリー監督の筆者と、広島の実家にいる認知症が進んでゆくお母さん、それを介護する80代後半のお父さんの話。

だんだんと認知症が進んでゆく中で起こるほっこりしてしまうエピソードや夫婦の絆が素敵だった。

今回映像として初めて、そしてお母さんの最期まで見て本当にわんわん泣いてしまった。

わたしは介護の経験も無い20代OLなので他の方達と印象に残った場面が違うかもしれない。

わたしが泣き出してしまったタイミングは、
お母さんが「包丁を持ってきて、死にたい、邪魔になるから死にたい」と泣き叫び、いつも穏やかなお父さんが「もっとみんなに感謝しろ!そんなこと言うな」と怒鳴るシーン。

わたしはそのシーンで、ビデオを回す「娘」でも怒鳴る「お父さん」でもなく、お母さんに共感して泣いていた。

お母さんは、今まで家事や子育てで役に立てていたのに、なんでか分からないけどそれら出来なくなっていっているのはわかる、迷惑をかけているのがわかる、そんなモヤモヤの中で怒りとして爆発してしまっていたのだと思う。

そんな苦しみの100分の1も理解できていないだろうけど、そうだよね、と共感してしまった。

自分が「何がしていないと」生きている価値が無いと、多分皆思ってしまっている。そう思い詰めて、周りもそう思っているだろうと思って攻撃的になってしまう、それはわたしにもあることだった。

その後の映像で、そんなお母さんにずっとずっと寄り添うお父さんが映されていた。
スーパーと家との往復も大変なのに、片道1時間かかる病院へ毎日会いに行く。もう90を超えているのに、お母さんが帰ってきた時にまたお世話ができるよう、筋トレをする。
毎日病室で手を握る。

そんな映像が、その前のお母さんの「生きている価値が無い」という叫びを優しく否定してくれていた。

何もできなくても、むしろ足を引っ張ってしまう存在でも、その人がその人としているだけで意味がある。誰かの生きる意味になる。生きていてほしいと願われる。

あぁそうだったなぁ、忘れてしまってたなぁと泣いた。

17歳で母を看取った。
人を看取る作業、その過程の先にハッピーエンドは無い。
だからこそそれまでの過程をいかに後悔しないように過ごすかを沢山考える。けれども最後は悲しみしか無い。
酷い言い方をすると、生産性は何もない。

死が現実的なものとして目の前に現れる時、時間の流れや価値観、常識は、一般社会と全く違うものになる。
でもその全く違う次元にいてこそ感じられる幸せがある。それは平たく言うと「当たり前のことが幸せだと分かった」ということだけど、「不幸の中にいるから当たり前のことが幸せに感じる」のではなく、その幸せのほんとうの姿を知る、というのが正確な気がする。

意味のないものにこそほんとうの意味がある。
ずっとそう思っている。
何の役に立てなくても、最後がハッピーエンドじゃなくても、そこにほんとうの意味がある。
今回のこのお父さん、お母さんの映像も、たまたま監督の娘さんが映像に残しており、それが人の目に触れることで価値に気づかれ、こうして大きな反響を呼ぶようになった。
きっと今だって日本中にそんな日常生活がたくさんあって、これを書いているわたしも、読んでいるあなたの生活も、意味が無いことも含めて絶対に意味がある。それは例え誰も「生きていて」と言わなくても。

明日、月曜日になればまた営業成績を上げなければ、早く家に帰らなければ、そう急かされて自分の価値を考えて生きていくと思う。

でもそのすぐ隣の世界に、全く別の時間の流れや価値観、幸せがあることを忘れたくない。

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