哲学対話を体験してみた。いろいろきづいた。
「哲学対話」って聞いたことありますか?
先日、子供の学校の授業参観でやっていて、それはとてもとても不思議な授業でした。
大人のファシリテーターさんがいる中で、クラス全体が同じテーマについて語るんですって。ただ語る。ただ語る授業。
それからのワタシの思考を、日記風味に書いてみようと思います。
授業参観。ファシリテーターだって。わお。ワタシもWLPのファシリテーターだぜ。それがどうしたっていうんだ、オレ。などと脳内会話をしつつ、授業を見学する。
うちの息子がいる授業じゃないんだけど、こっち授業の方が面白そう。
ホワイトボードに書いてあるのは、
論破しない。
答えを出そうとしない。
みんなそれぞれだよねで終わらない。
人の話を聞く。
え? それが授業? っていうかそれがファシリテーターの仕事??
興味に向かってだけ延びるアンテナが、にょろにょろっと動く。
このところ、哲学対話のことを読んだり探したりしている。
哲学カフェなるものが全国にあるらしい。けど、それはちょっと抵抗がある……
だからオンラインのワークショップに参加してみることに。
だって、ZOOMなら、終わった瞬間に退室できる。
リアルカフェだと、その後も続きそうだし。
話してもいいし。話さなくてもいい。
よく聞く。
否定しない(されない)。
質問していいし、話題が前後してもいい。
人を傷つけない。
と説明をうけて、1時間半の哲学対話ワークショップが
始まり、そして終わる。
なにかを体験した後の感想を書こうとすると、たいがい
「面白かった」って書くし、実際オモシロ~って体感が一番先にあるんだけど、哲学対話は、ちがった。
面白くないわけじゃなかったけど、楽しくもなかった。
なのに、数日経過したいまも、ずっとひきずっている。むーーん。
――――――挑戦してわかったこと。
感情を言語化することって、ワタシ、苦手じゃない。
むしろ得意だったりする。
それをしないと、苦しかったから本能でしてきただけだ。
美味しいご飯しか食べたくないから、お料理を学んできた人みたいなもんで、自分が少しでも生きやすくなりたいから、自分を言語化して暮らしていただけだった。
だから、得意になるほどやったことだから、得意なのだ。
だからちょっと生きやすくなったって自覚があるから、書いたり話したりして、自分の言語化を生きるための軸にしている。
んだけど、なんと、思考を言語化してなかった。
例えば、子供たちの授業でテーマになっていたのはこんなの。
「人はなぜ旅をするのか」
やばい。自分のことじゃないw となると途端に、思考と感情と情報と周りの意見と誰かの反応とが、混濁してしまう。
なんだこりゃになる。
つまり
足りてないのは、思考の言語化なのだ。むーん。
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