見出し画像

模様替えをしながら 断捨離をしているのだけど、それはどこか家族への遺書でもある

自分の荷物を断捨離しながら、亡くなった母の荷物もまだまだあるので、それも片付けています。
これが実家に暮らす人の運命とかいてサダメと読む、大仕事。。。
腰を痛めないように気を付けてw

さてさて、母の荷物の中には、母の両親、ワタシにとって祖父母からの形見分けも山盛りに入っているわけです。もう、オカアサン、ゴミが無料だった時代の習慣だよね……って思いながらその塊をみつめるワタシ。

どこぞの家柄でもないので、残念ながら価値ある骨董品があるわけはなく、祖父が描いた水彩画や自費出版した書籍といった私物ばかり。
個人的なモノすぎて、保管していつか使うってものでもないし、廃棄するにもゴミ処理って割り切れない微妙なものたちすぎる。
えいっと捨てきれない自分の優しさを呪います。
優しさなのか??ww でも未練ではない。モッタイナイお化けでもない。
形見ってしんどいですよね。

そして、母の荷物の中で、ワタシが一番困っているのは、

膨大なアルバムたちです。



祖父母たちの時代は、写真がまだまだ非日常的なものだったからか、ごくわずかですが、母世代にとったら、写真は撮って焼いてフエルアルバムに保管。それが多いほど思い出の数が多く、幸せの象徴❤って感じだったのでしょうか。

ママ、リア充でよかったね。

って心から思えるほど、フエルアルバムの山。山。山。
それにしてもなんて丁寧に暮らしていた人なんだろう。

よく母が、「遺影は旅先での写真にして。家にいるときにはしない笑顔をしてるから」って言っていたのを思い出した!! なのに、写真館で無理に笑った写真を切り取ってごめん。いまさら突然、思い出しちゃったw
遺影を替えちゃおうかしら?w


父の部屋には地味で大きな仏壇があります。菩提寺が曹洞宗なので、いかにも曹洞宗って感じの仏壇です。わかります? 
その上に、父方の祖父母と、母の遺影が飾られています。母の願いとは違った、ちょっとニセモノらしい笑顔の母。知らない間に、母と言えばその笑顔って記憶が上書きされている魔法の写真。それが遺影。


子供の頃、山梨の母の実家である祖父母の家にいくと、和室に知らない老人たちの写真が何枚も飾られていて、それも白黒、時々肖像画。
その人達が見下ろす部屋で寝るのがとても怖かったことを想い出しました。
いまなら目が悪いからコンタクトを外せばなにも見えないけど、子供の頃は目が良かったんだな。
薄明りの中、額の中のガラスが光っているのさえ、誰かの視線を感じてるみたいに思えて、怖かったのでした。祖父母の家にあったその写真たちは、祖父母の死とともにどこかに消えたと思います。
いま思うと、ワタシのれっきとした先祖たちなんですよね。
ダレがだれか判らないままだけど……

このまえ、誰にでもいる守護霊って先祖で、しかも何代か前の先祖だって聞きました。もしかして、あのころ見た写真の中の誰かだったりするのかしら? といまふと思いました。怖くなかったw 守ってくれる人たちだったのか! それなら見ておいてよかったのね。


ああ。もう、すっかりフエルアルバムの話題から、かなり離れてしまった。

離れたどころか、タイトルを回収しようとしてるのに、何を書いているか迷子になってきちゃったけど……

えっと。
めちゃくちゃ断捨離してます。
なにを残して死ぬかなんてことを考えるのが似合う年齢になってきたんだなぁとしみじみしながら、捨てています。

でもミニマムに暮らす予定で捨ててるわけじゃなくて、
なにに囲まれて生きるか、その生きざまを遺書にしたい。
そう感じているってかんじです。感じてばっかり。つまり思考はしてないらしいww

なにを捨て。
なにに囲まれ。
なにを選び。
なにを大切にし。
なにを愛するか。


母のフエルアルバムから見えたものは、母のタノシカッタ時間たちより、母がどれだけ丁寧に暮らしていたか。なにに時間を割いていたか。なにを大事にしていたか。

どこに誰といったかより、そこです。
ワタシの血となり肉となっているものたちはどんなに古くても捨てず、
なんで買ったのかおぼい出せないものや、見栄のため・妥協の塊で・一時的なノリで・そういったものたちを、捨てています。


ワタシが死んだあと、ワタシの部屋をみて、家族がワタシを感じるワタシを想像しながら部屋を作っていて、こういうことをするのが相応しい年齢になってるんだぁと、しみじみしています。
でもまだ、生きる気満々っすよ? そりゃもちろん。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?