ただ情けない


「正直、もう限界だ」
新大阪の駅で、修学旅行かなんかで来阪したのであろうブクブクに太った中学生の、使い慣れない、海外旅行でも行くのかと言わんばかりのジャンボキャリーケースのキャスターに足を引かれて、俺はそう思った。

子供の頃からずっと俺は言いたいことをぐっと飲み込む性格だった。怒りにせよ、辛さにせよ、悲しみにせよ、マイナスの感情については基本的に表現してこなかった。

コトを荒立てるのが嫌だったし、人が怒る顔を見るのが怖かった。
自分が堪えることで周りが幸せになれるならそれでいい、とも思った。
「情けは人のためならず」、この我慢はいつか自分に良い様に返ってくる、そう言い聞かせた。

でも人生30年、そんなことは一度たりともなかった。
俺が不満を感じながらも何も言わずにニコニコ見送ってきた奴らは、俺なんかよりずっと楽しそうに人生を過ごした。
一方、俺の鬱憤は晴れることはなく、ストレスばかりが溜まった。

頭痛、不眠症、耳鳴り、ストレス性胃炎、逆流性食道炎、呑気症、肋間神経痛、汗疱状湿疹…ストレスから来る体調不良は枚挙にいとまがない。
一方で鬱や入院レベルの体調不良にならないことで、誰からも苦しみに気付いてもらえず今まで過ごしてきた。
それもまた、文字通り「頭痛のタネ」だった。

「神様を信じる強さを僕に、生きることを諦めてしまわぬように」
これは小沢健二の「天使たちのシーン」という曲に出てくる歌詞である。
この曲を聞いた時、目から鱗が落ちた。なんと神様を信じるのは強さがいると言うのだ。
俺は無神論者で、何かの神様を強く信仰することは弱い人間がすることだと思い込んできた。
でもこの構図は見事に逆だったのだ。神様「すら」も信じられない俺は、神様を信じられる「強い」人間を卑下することで、自分を保ってきたのである。

これは自分の性格にも置き換えることができた。
俺は何かにつけて怒りをぶつけ、コトを荒げる人を「弱い人間」だと思い込み、自分を「我慢のできる強い人間」として優位に立とうとしていたのだ。
しかしこれもまた逆で、俺は「我慢しかできない弱い人間」で、世間的には自分の感情をストレートにぶつけられる人間こそが強者として君臨するのだ。

そんな折、俺の足にキャリーケースのタイヤが乗っかった。
今まで溜まっていたもの、我慢してきたもの、その内に秘めたる怒りのゲージがマックスに達した。今日会ったばかりの中学生には申し訳ないが運が悪かったとしか言いようがない。俺の人生初、怒りの発散に付き合ってもらおう。

「イッテー!!!!」
よし、大声で言えたぞ。次は怒りに任せ暴言を吐き、喧嘩をふっかけるだけだ。
…と思ったのだが、言葉が出てこない。
俺はめちゃくちゃ怒っている。でも、怒っている時になんて言えばいいのだ。
「怒ってるぞ!」か?いやそんなストレートな言葉じゃバカにされる。
「何すんだてめえ」か?いや、でもコイツもわざとやったわけじゃないし。
「どこ見てやがるんだ」か?まあ、前向いて歩いてるから後ろの俺の足を引いたのは分かりきったことか?

そう迷っている間に、急いでいたデブ中学生は「すみませーん!」と甲高い声だけを残し走り去ってしまった。
このタイミングで怒りをぶつけたところで、中学生に負け犬の遠吠えをする恥ずかしいオッサンにしかならない。

俺は気づいた。
何十年と誰かに対して怒りや不満を表現してこなかった自分が、今さら人に感情をぶつけることなんて出来ない。
それはこの先2倍も、3倍も続く寿命の中で変わることはない。
人生の序盤で決めた「言いたいことも人のためならぐっと堪える」メソッドで、この先の真っ暗闇を生き続けなければならないのだ。

筆舌に尽くし難い不安と絶望が心の中を支配して、俺はこう思う。
「正直もう、限界だ」

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