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尖ったお尻


私には年子の弟がいます。

年子なので
私の1番最初の記憶には既に赤ちゃんの弟がいて、私は最初から「姉」という立場でした。

どこへ行くにも
弟は母に抱っこされていて、

私はその横で何度も転びながら必死に歩いていたのを覚えています。

外出時だけではなく、テレビを見るときもおやつを食べるときも、甘えん坊だった弟は母の膝の上に座っていました。

なぜか弟だけ保育園や小学校をズル休みするのを許されていました。学校に行きたくない日は体温計をうまいこと擦って熱を上げて休む。

それは私には許されていませんでした。

私だって抱っこされたいし学校をズル休みしたい。

弟を抱っこして幸せそうにしている母を見て、

その2人の周りにはオーラというかバリアが見えてはいたのですが、
ある時、勇気を出して

「私も抱っこして」と母の膝に乗りに行った記憶があります。

弟を左ももに移動させて、右ももで私を受け入れた母は

「ミーちゃんのお尻の骨は尖っているから抱っこしたら痛いわ!私の脚が壊れちゃう。いたたたた。はい、もうおしまい。どいて」と、

私をひょいと立たせ、

弟に向かって

「○○くんのお尻はふんわりでいくら抱っこしてても痛くないね〜」と言いながら、笑顔を見せるのでした。


私のお尻は骨が尖っていて抱っこすると痛いのだそうです。

だから私のことは抱っこしたくないのだと言って笑った母の笑顔が忘れられません。


私に子供が生まれて、

息子を太ももの上に乗せると、息子もお尻の骨が尖っているようでちょっと痛いです。

遺伝ですかね。
「お尻の骨尖りの遺伝」とかあるのかな。

でも、そのお尻のとがりも痛みも

私には愛おしい。

いくら痛くても(そんな壊れるほど痛くはありませんが)

何時間だって息子を抱っこしていられました。


自分が大人になった時、

子どもを生んで育てていたら、たいてい「親のありがたみ」がわかるといいます。

しっかり育ててもらったし、もちろんありがたかったことも良い思い出もあります。

しかし自分が大人になったからこそ、

子どもの頃にはわからなかった、親の、

「1人の人間としての部分」が見えて、

悔しいような寂しいような、変な諦めの気持ちに似たものを感じることがあるのですね。

子の尖ったお尻を
愛おしいと思うのか、
「痛いからどいて」と拒否するのか、

拒否の場合は、
本当に尖ったお尻だけの問題だったのか。

私のお尻が弟のようにふんわりだったら、いっぱい抱っこしてもらえたのかな。
せめて「尖ったお尻」だけが原因だったらいいなと。

秋の心細さのせいでしょうか。
ふとこんなことを思い出して寂しくなっています。




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