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極楽往生

水飲み百姓の娘、多津は、村名主の家の奉公人として勤め始める。同じ奉公人の又吉やお富、八代と日々を過ごすうち……。あの日の晩に、なぜ自分が泣いていたのか。あの時になぜあたしはついていったのか。その全てが今ここに答えとしてある。あたしはどうしても乗り越えられない何かを、風のように乗り越えてみたかっただけなのかもしれない。


第1話

殴られた左頬がまだ痛む。

縛り付けられた縄が食い込み、全身のしびれと寒さに目を覚ました。

「あ~、くそっ!」

血生臭い唾を吐き捨てる。

空には嫌になるほど大きな月がかかっていた。

何よりも気に入らないのは、毛羽だった杉の木に縛り付けられているせいで、肌に刺さる棘までもがチクチクと痛み落ち着きが悪い。

気付けにとぶっかけられた井戸の水で、着物はすっかり濡れてしまっている。

旦那さまに呼ばれ、部屋に入った。

奥さまと番頭気取りの八代、又吉にお富の奴まで含め、奉公人皆が勢揃いしていた。

ただならぬ雰囲気に、あたしはようやく己の身に降りかかった災悪の大きさに気づく。

「決して、決してそのようなことはございませぬ!」

「では本当に、一切の非はないと己に認めるか」

そう問われて、言葉に詰まる。

己に対する非?

そんなもの、持たぬ人がこの世にあるだろうか。

恐る恐る顔を上げた。

旦那さまは怒りに満ちた目であたしを見下ろし、八代はいつものように顔色一つ変えやしない。

又吉はやたらとニヤついていた。

奥さまはすぐに騒ぎ始める。

「ほらご覧なさい! なにも言わぬのが、何よりの証拠ではありませんか!」

「そうでごぜぇますとも、全くその通りにごぜぇます!」

お富は当然のようにそれに同調した。

奥さまのわめき散らす怒鳴り声にただただひれ伏し、あたしは「申し訳ございません!」をいつものように繰り返す。

「ほら、このように多津も認めております」

その一言に、ハッとした。

「ち、違います!」

「何を言う! たった今、謝ったばかりではないか!」

「このお富が保証いたしやす。奥さま、この女は……」

「分かった、もうよい!」

旦那さまは扇子をパチリと鳴らした。

「多津を一晩、裏山に縛り付けておけ!」

だからって何も、あんなに酷く殴りつけることなんかありゃしないじゃないか。

大体何が悪いってんだ。

どれもこれも全部、あんたらのせいじゃないか。

あたしの何が悪い?

人を悪人みたいに扱いやがって。

寒さに身が震えた。

明るい満月の夜だ。

ここはどこなんだろう。

随分と山の奥まで連れてこられたもんだ。

カサリと小さな音がして、腫れ上がったまぶたを持ち上げる。

見れば小さな栗鼠がこちらを見上げていた。

一時立ち止まっただけで、あっという間に走り去ってしまう。

「おい、栗鼠なら縄ぐらい解いていけ」

きつく杉の木に縛り付けられているせいで、指の先しか動かせない。

首はかろうじて回るが、それには激しい痛みが伴う。

あの仕置きの場に若旦那さまとお菊さまのいなかったことが、あたしにとっての全てだったのだ。

どれだけ尽くしても、かばってくれる人などいやしない。

ふいに可笑しくなって、面白くもないのに笑う。

何が出替わり日を迎えないと暇はだせぬだ。

騒ぎ立てるやかましい奥さまを、さっさと黙らせたかっただけじゃないか。

結局は台所奉公の出替奉公人より、長年季で働く男手の八代と又吉を選んだってことだ。

これから稲刈りの始まる忙しい時期に、皆のご機嫌取りの道具にされたんだ。

いつだって落ち着かない居心地の悪いあの家が、こんなことで静かになんてなるもんか。

あたしに色目を使っていた又吉が、一番に縄をかけた。

元々信用もなにもなかったが、ここまで酷い男だとは思わなかった。

あんな男に惚れているお富は、どうかしている。

傷口に掛けられている縄のせいで、ズキズキと腕が痛む。

流れた血で着物は赤く染まっていた。

遠くで梟の鳴く声が聞こえて、深く息を吐き出す。

体が火照り始めていた。

熱が出てきたようだ。

頭まで痛み始める。

若旦那さまのことを、一度でもそんな目で見たことはなかったかと言われると、否定することは難しい。

だけど所詮身分の違う立場だ。

自分のような小間使いの下っ端奉公など、相手にされても、してもらうのも、いいことなんてありゃしない。

お手つきの奉公人になんて、なるもんじゃないと知っている。

そんなこと、誰に言われなくても分かってる。

だから嫌だったんだ。

こんなことになるなら、あの時にちゃんと逃げ出せばよかった。

初めて男に抱かれた。

この機会を逃せば、もう一生こんなことはないと思った。

又吉から浴びせられる色目が、とにかく気持ちわるかった。

いずれ又吉なんかにそうされるくらいなら、若旦那と床入りした方がまだマシだと思った。

ただそれだけのことだった。

あの日の晩に、なぜ自分が泣いていたのか。

あの時になぜあたしはついていったのか。

その全てが今ここに答えとしてある。

あたしはどうしても乗り越えられない何かを、風のように乗り越えてみたかっただけなのかもしれない。



第2話


奥さまと八代の逢い引きを、又吉と二人で見てしまったその日から、どうにも離れられなくなった。

情を交わす二人の様子を、月明かりの下で盗み見た。

早く逃げ出してしまいたかったのに、手を掴んで離さない又吉のせいで動けなかった。

そういえばあの日の晩も、こんな大きすぎる満月の夜だったっけ。

「こんな奴らのことなど、何とも思ってはおりませぬ」

声に出して言ってみて、益々馬鹿らしくなった。

「……こんな奴らって、どいつのことだよ」

いいことなんて、何にもなかった。

貧しい水呑百姓の生まれだ。

気がつけば泥にまみれて暮らしていた。

土を掘り、草を抜き、日に焼かれるだけの日々が過ぎてゆく。

そうしなければ生きてゆけぬから、ただ目の前の、やれと言われたことだけをやってきた。

その理由なんて考えたこともない。

それでも町の枝豆売りや茶屋娘などより、よっぽど良い身分だと信じて疑わなかった。

馬鹿だった。

田畑の間を走り回っていた。

幼い時分には、石を見つけて投げ捨てるだけでほめてもらえた。

百姓として生きることに、なんの疑問を抱いたこともない。

若旦那や八代に顔を覚えられていたのをいいことに、両親が村名主である旦那さまに奉公の話しを持ちかけた。

なかなかに渋られていたのが、一昨年にようやく雇ってもらえた。

うれしかった。

地を這うような野良仕事から解放された。

毎日まともな着物を着て掃除や洗濯に明け暮れた。

これでお給金までもらえるだなんて。

そんな人生を想像したこともなかった。

一生懸命に働いた。

食うにも困らなくなった。

次の年季も勤めないかと言われ、天にも昇るような気分だった。

この前の秋の出替りで、お富が入ってきた。

ずっと働いていたお松さんの代わりだ。

四十を超え、お役御免を申し出たお松さんと違って、十を過ぎたばかりのお富には手を焼いた。

知恵も回らず力もないお富に、あれこれと仕事の要領を教えるのには骨が折れた。

まだ遊びたい盛りだ。

殴りつけたこともある。

怒鳴り散らしたこともある。

投げつけた薪で怪我もさせた。

だけどそれで、こんな恨みを買うこともないじゃないか。

野良仕事で泥の中に埋められるより、よっぽどマシだ。

お富と又吉が恋仲だろうがなんだろうが、あたしは知らない。どうだっていい。

だけど、少しでも世話を受けた相手に向かって、どうしてこんな仕打ちが出来るのだろう。

又吉のことは何とも思っていないと、何度説明しても誰も耳を貸さなかった。

調子にのるあの男の顔を見るたびに、吐き気がした。

便利に思っていたことは間違いない。

又吉に頼めば大概のことはやってもらえた。

誰の邪魔にもならないように、誰の迷惑にもならないようにと、そうやって生きてきた。

自分は不幸なのだと、誰からも認められるような困難もなく、かといって幸せかといわれれば、そうでもない。

どうすれば幸せになれるかだなんて、そんなことを考えたこともなかった。

今ではもう、遠い昔の話しだ。

あぜ道を裸足で走り回っていたら、屋敷へ招かれた。

何事かと思い誘いに乗ってみれば、ほぐした鯛を混ぜた握り飯が差し出された。

「昨晩、若旦那の祝言があってね。その祝い膳の残りだよ」

まだ若かりし頃の奥さまが自ら差し出したそれは、塩のよく効いた握り飯だった。

その座敷の奥に干されていた真っ白な打掛の艶やかさが、今も目に焼き付いている。

染み一つ無い純白の、その汚れ無き白に憧れた。

眼前の月が眩しく輝く。

目の前を大きな蛇が横切った。

冷たい鱗がぬめりと光る。

遠くでカサカサと物音が聞こえた。

「誰か! 誰かお助けを!」

無言のまま足早に駆け出す足音は、イノシシだったか?

ここでこうして縛り付けられたまま一夜を明かしたその後に、何が待っているのだろう。

傷の手当てくらいはしてもらえるかもしれない。

それはお富か又吉なのか。

お富ならイヤミばかりを言いながら、いい加減な仕方で終わるのだろうな。

又吉なら着物を全部脱げとか言ってくるかもしれない。

喉の渇きにゴクリと唾を飲み込む。

動かした口の端から、また血が流れ始めた。

これで本当に変われるのなら、安いもんだ。

若旦那の手が伸びて、あたしの頬に触れた。

そのまま顔は近づいて、唇を重ねる。

灯明皿の火が消え、初めて男の腕に身を預けた。



第3話


又吉が人目のつかぬところで、ベタベタと触ってくるのが嫌でたまらなかった。

出来るだけ二人きりにならぬようにしていたのに、お松さんは笑って「照れなさんな」とか「まぁ分かっておやり」とか言って、まともに取り合ってはくれなかった。

それでも冷えた茄子や蒸かした芋などを持ってきてくれた時には悪い気もしなくて、縁台や土壁にもたれてこっそり食べた。

奥さまやお松さんにそんなところが見つかっても、からかわれてお終いだった。

若旦那が八代や又吉に文字を教えるのを、気の向いた時にはたまに一緒になって聞いていた。

字を書くのは楽しかった。

筆を持つのは鍬や鋤を扱うのとは違って難しい。

少し手を動かしただけで、筆の先はぐにゃりと曲がる。

すぐに「やめた」と放り出すあたしを見て、皆が笑った。

なかなか上達しないまま、この屋敷へ来て一年が過ぎた。

あの日、どうしてあたしがそこにいたのか。

もうすっかり忘れてしまって思い出せない。

夏の盛りもようやく過ぎて、夜が長く延び始めたのがいけなかったのかもしれない。

どういうわけかあたしは縁側の下に隠れていて、そこに又吉もいた。

背後から抱え込まれ、身動きが取れなかった。

耳にかかる息がとにかくうっとうしくて、振りほどこうともがく度に、きつく抱きしめられた。

もういっそ大声を上げて助けを呼ぼうかと思った瞬間、カタリと頭上の障子は開かれた。

声が聞こえる。

二人いる。

旦那さまは村の寄り合いに出かけていない。

又吉はここにいる。

八代さん?

お富はとっくに家に戻っていない。

「丁度良い宵闇じゃないか」

「こんな夜更けに何用でございますか」

ぼんやりとした灯りが灯される。

「いいから、こっちへ来てお座り」

衣ずれの音。

カチリと火打ち石の打ち合う。

少しばかり今年の収穫と出来の話しをした後で、行燈の明かりが消えた。

「このような事は困ります!」

「何を今さら」

急に静かになった。

時折ごそごそとくぐもったような音が聞こえてくるだけで、やがてそれも声色を変え奥へと動いてゆく。

逃げるなら今だ。

動こうとしたあたしの手を、又吉は掴んだ。

目が合うと、何とも言いようのない醜く歪めた笑みを浮かべる。

何の言葉も発しなかった。

それでも又吉の野郎が、何を言おうとしているのかは分かった。

振り払おうとする手は決して許されることなく、あたしはそこへ道連れにされたんだ。

又吉はあたしを掴んだまま縁の下から這い出し、闇へ目をこらした。

八代と奥さまの絡み合う姿に目をそらす。

「いいから見とけよ」

冗談じゃない。

こんなところで見つかって、余計なもめ事を抱えたくない。

夢中になってのぞき見ていた、又吉の手が緩んだ。

その一瞬の隙をついて振り払う。

あたしは駆けだした。

遠くで野犬の遠吠えが聞こえる。

どこかに群れでもいるのだろうか。

ここからは山道も見えない。

縛り付けられている目前に広がっているのは、月明かりに照らされた森だけだ。

川べりの崖の縁なのかもしれない。

目線より一段低く、黒々とした木々が広がっている。

下草が生えているから、お天道さまが昇れば日は当たるのだろう。

ゴソゴソと草がうごめいて、なにかの甲虫が這い回っている。

もう大分前から指先に感覚はない。

後ろ手に縛られた腕まで重くだるく感じられる。

さっきまで寒くて身震いしていたのに、いつの間にかそれも治まっていた。

「お多津、後でこれをうちの家まで届けておいてくれ」

又吉にそう言って渡された、風呂敷包みの中身になんて、全く興味はない。

なぜ嫁でもないあたしが、そんな届け物をしなくてはならないのか。

「お富、あんたが代わりに行ってきな」

物陰からじっと窺っているお富に、その包みを押しつける。

お富は恨めしそうにあたしを見上げると、それを抱えたまま、逃げ去るように行ってしまう。

「だから、恋仲なんかじゃないってのに」

又吉から投げつけられる執拗な視線も、お富の誤解と嫉妬に満ちた態度も、何もかも嫌で嫌でたまらない。

お松さんが居てくれたなら、まだ笑って愚痴を聞いてもらえたのに、お富にはそれがない。

そもそもあたしがこんな目に遭っていること自体、何もかも間違っているんだ。

おかしい。

あり得ない。

間違いばかりだ。

八代はそもそも大人しい人だ。

よくも悪くも、あの人は聡いんだ。

自分の損得をちゃんと分かって動いている。

仕事は遅く融通も利かぬところはあるが、寡黙で真面目で、地味でもやることはちゃんとやる。

その誠実さが、旦那さまの気に入っていたところだ。

それより少し年若い又吉は、力はあるが軽口ばかり叩いているような奴で、仕事は早いが、とにかくおしゃべりで調子がいい。

年長の八代に頭のあがらなかった又吉は、ある頃から八代に対し、強く出るようになった。

あの夜がきっかけになったことは、間違いない。

どうせ奥さまとの仲を、旦那さまの耳に入れるとかなんとか言って、脅かしていたのだろう。

「八代さん。そっちにばかりかまけてないで、こっちも手伝ってくださいよ」

小雨の降る中、一人で田の見回りから帰ってきた八代に、又吉はそう声をかけた。

あたしとお富が縄を編んでいる横に寝転がり、ひたすらお富をからかい、笑い者にして散々馬鹿にした後だった。

「そう言うなら、お前も真面目にやれ」

又吉は藁を打つ木槌をワザとらしくドンと叩きつけた。

渋々と起き上がる。

「やっぱ八代さんにはかなわねぇなぁ!」

藁を柔らかくするためにかける水を、バシャリとはねさせる。

その水滴の数粒が、八代の頬に散った。

稲わらをつかみ取ると、力任せに揉み始める。

「あぁ、やっぱり手が痛ぇや。明日は晴れても草刈りは無理かもしれねぇなぁ!」

又吉は立ち上がると、納屋の二階へと向かう梯子に手をかけた。

「少し休んでから、また手伝いますわ。多津、後で俺を起こしに来てくれ」

残された八代は、黙々と作業を続けている。

あたしはお富からの非難じみた視線と、始まった鼻水をすすり上げる音にうんざりとしていた。

「お富、泣くな」

八代は言った。

「泣くくらいなら、手を動かせ」

雨の降る日は肌寒い。

雨音に藁を打つ音と、お富の泣き声が混ざる。

刈るべき草は永遠に伸び続け、あたしたちは畑に水を撒き、日は照り続ける。

何もない時がただただ過ぎていくだけの毎日に、変化が訪れた。

「多津、ようやくお菊に赤子が出来たぞ」

若奥さまの懐妊の知らせを聞いたのは、縁側で縫い物をしている時だった。

「多津、お菊の世話を頼みます」

若奥さまが輿入れして、数年が経っていた。

なかなか赤子の出来ないことが、なによりも奥さまを悩ませていた。

「ほら、お富はいつまでものんびりやってないで、さっさと済ましや」

あたしの持っていた着物を奪いとると、お富に投げ渡す。

「これから多津はお菊に付きっきりにさせるから、あんたが他の仕事を全部やるんだよ」

顎でクイと示されて、奥さまの後をついて行く。

今まであたしたち奉公人の立ち入ることが許されなかった屋敷の奥に、その人はこちらに背を向けて横になっていた。

「お菊。多津を連れてきた。身の回りの世話は、全部この多津に言いつけるんだよ」

奥さまはあたしを振り返った。

「多津もしっかり勤めるように」

「よろしゅうお願いいたしやす」

畳みに額をこすりつけ、じっと動かずにいた。

真綿の布団に横たわったその人の、起き上がろうとする衣ずれの音を聞いている。

「多津。よろしく頼みます」

顔をあげ、初めてその顔をしっかりと見た。

年の頃はあたしと変わらない。

髪は乱れ、随分と顔色も悪い。

真っ白く柔らかそうな肌が、青くくすんでいる。

野良仕事などしたこともないような方だ。

見たこともない賑やかな遠い町から嫁いできた、立派な商人の娘と聞いていた。

「へぇ、こちらこそお願いいたしやす」

再度額をこすりつける。

わずかな視界に見える布団が動いた。

美しいその人は、また横になるらしい。

「お手伝いいたしやす」

赤地に金の刺繍の施された、派手な真綿の布団を持ち上げる。

細く今にも折れそうな体をしたお菊さまは、するするとまた横になられた。

「今はもういいから。隣の部屋にいて頂戴。呼んだらすぐに来て」

同じ年頃の細い肩が、荒い息づかいに揺れる。

あたしは奥さまを見上げた。

「言われた通りにおしや」

その日、あたしは襖のぴったりと閉じられた薄暗い部屋で、ただ座って一日を過ごした。

お菊さまに声を掛けられることだけを待ち続け、ただひたすら座り続けていた。



第4話


通いから住み込みの奉公人となったあたしは、お菊さまの衣装部屋となっていた部屋に居場所を与えられ、そこに寝泊まりすることになった。

布団を満足に敷き広げることも出来ないような隙間に横になると、迫り来る箪笥に両脇から見下ろされているような気分になる。

蔵の奥から数年ぶりに出されたというかび臭い布団は、それでもあたしの知っているものよりずっと綿は厚かった。

お菊さまの悪阻が落ち着いてくると、奥の部屋に座って待つだけの日々にも終わりがきた。

お菊さまは塞ぎ込むことも多かったけれども、あたしはこの方の身の回りの世話をすることが増えていった。

この方がどんな生まれで、どんな暮らしをしてきたかなんて知らない。

だけど、あたしと全く違うのだということだけは分かった。

透けるような真っ白い肌に、小さくて綺麗なお顔。

奥さまと話す会話は、遠い町や歌舞伎役者の話しばかりで、何を言っているのかさっぱり分からない。

あたしと一つしか歳の違わないお菊さまは、京の砂糖菓子がお好きだった。

「お多津」

「へぇ、なんでごぜぇましょうか」

「そのしゃべり方、恥ずかしいから直して」

そんなことを言われ、お菊さまを見上げる。

「余所で笑われたのよ。もう二度と私に聞かせないで」

「へぇ、ですが……」

淹れたばかりの茶の入った椀が投げつけられた。

「ごちゃごちゃ言うな! 直せ」

「かしこまりました」

濡れた畳みの上にひれ伏す。

襖の開き、また閉じられる音がして、転がった茶碗を片付けた。

それでも慣れてしまうと、なんとも思わなくなるもので、古い着物や羊羹なども時には分けてもらえた。

外出のお供につくときなどは特に、草履も別にとってあるその時用のものを履くように言われた。

あたしも少しは賢くなって、お菊さまや奥さまの前へ盆に乗った砂糖菓子を差し出す前に、人気のない廊下で口に入れることも覚えた。

「えらい、いいご身分になられましたなぁ」

そんなところをお富に見つかって、あたしは足を止める。

田植えの準備が始まっていた。

田起しのための大きな風呂鍬や鋤を持ち出し、庭に並べている。

八代や又吉ら男たちに混じって、これから泥の中に入るのであろう。

野良着姿のお富があたしを見上げている。

「そんなもの盗み食いして、後でえらい叱られたりしませんか?」

「生意気な口を利かずにおったら、一つくらい分けてやってもよかったのになぁ」

一段高い所から見下ろすその光景は、特別なものだった。

「お菊さまや奥さまに気に入られてるからて、あんまり図に乗らん方がえぇですよ」

「どこに目ぇついてんのや。あんたこそ着物の一つくらい、まともに縫い直せるようになったんか」

「いま稽古してるし!」

「いつまで稽古してるんや。力仕事も炊事もまともに出来んのに、妙なところには、よう目鼻が利く」

「あんたの教え方が悪いから!」

「は? なにを言うて……」

「お富、早く他の道具も運べ。さっさとやらねぇと終わんねぇぞ」

そう言った八代の、冷たい横顔を思い出す。

お富は悔しそうな顔をしながらも、渋々自分の仕事に戻った。

もはや同じ屋敷に住んでいても、八代や又吉と顔を合わせることはほとんどない。

彼らは納屋の上に寝床を構えていて、あたしは若奥さまのいる母屋に居がある。

彼らは決してそこに足を踏み入れることはない。

「しっかり気張りや」

奥さまの、そんな口癖を真似してなんかみたりして。

あたしも馬鹿だったな。

ひれ伏したまま開けた障子の向こうには、ちゃんとお菊さまと奥さまが座っていて、さっきまでのそんなやりとりを聞いている。

「泥棒猫が入り込んだと思うていましたら、こんなところにおりましたとは」

奥さまはお菊さまに視線を移して、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。

「まぁ、躾の悪さは争えませんからねぇ」

コホンと一つ咳払いをしてから、わざとらしく姿勢を改める。

「下女を使うには心すべし。情をもって己を正せと申しますが、お多津を見ていると使う者の器量というものが、よう分かります」

食欲も増え、少しふくよかになったお菊さまの顔は、キッとつり上がった。

「多津! お前か床の間の花を生けたのは!」

「ち、違ぇます! 花なんか生けたこともございやせん!」

「その口の利き方を、直せといっただろう!」

「申し訳ございません!」

額を床にこすりつける。

奥さまは高らかに笑った。

「生けた花ごときでそのように声を荒げてなんですか。ようやく出来た子供に、その性分まで似なければよいのですけど」

「さすがはお義母さまの連れてきた下女です。よく女の徳、『和』と『順』をよく心得ております」

始まった罵詈雑言の嵐を、ただ黙って聞き流す。

花を生けたのは奥さまだ。

あたしがそんなことを出来るはずもなければ、やるわけもないと分かっているのに。

お菊さまがそんなことをいうのは、奥さまへの当てつけだ。

奥さまもそれを分かっているから、余計に腹を立てる。

二人にとっては互いを罵っているだけのことなのだろうが、その全てがあたし自身を非難しているようで、結局この方たちにとって、自分は視界にも入らぬような存在であることを思い知らされる。

お菊さまのいらだちはあたしに向かい、全ての怒りはあたしに向かい、機嫌の悪さもなにもかも、あたしはその全部を飲み込んで息をする。

顔を見ただけで苛つくと言われたかと思えば、そのすぐ後で呼んでも来ないと腹を立てる。

泣き出したかと思えば怒りだし、笑ったと思えば塞ぎ込む。

昨日は喜んだものが、今日にはもう気に入らない。

泣くことすら出来ず、若奥さまに散々棒で打たれた後のことだった。

衣装部屋の寝床に戻ることも許されず、縁側で横になり夜が明けるのを待つしかなかった。

明日の朝には機嫌も直っているだろう。

頃合いを見て、許しを請おう。

そんなことばかりを考える毎日に、疲れ果てていた。

星もない真っ黒な空まであたしを見下している。

「お前には苦労をかけるね」

ふいにかけられた言葉に、顔を上げた。

隣に腰を下ろしたのは、若旦那さまだった。

「お菊のやつ、なにもこんなに打つこともないだろうに」

伸ばされた指の先が、傷口に触れる。

そこだけがチクリと痛んだ。

「お多津、泣いているのかい?」

どんな話しをしたかなんて、もう覚えてもいない。

立てた雨戸の板戸にもたれ、ぼんやりと何もない夜空を見上げていた。

ただ問われたことを問われるがまま、淡々とそれに答えていた。

「ふふ。だけどお多津は、又吉と恋仲なのだろう」

「違います。そんなことはあり得ません」

もう疲れた。

奉公人同士でそんなことになるなんて、ありえない。

ましてや相手が又吉だなんて、死んでもご免だ。

「おや、そうだったのかい? てっきり……」

あたしは首を横に振った。

「もうその話は、やめて下さい」

東の空が白み始めた。

今を思えば、あの時の若旦那さまの本心はどうであったのかまで、疑いたくなる。

「早くお部屋にお戻りください。一緒にいるところを誰かに見られでもしたら、若旦那さまにも迷惑がかかります」

この山に縛り付けられてから、もうどれくらいの時が経ったのだろう。

きつく後ろ手に縛られた手首から、ドロリと生暖かい塊が流れ落ちた。

指の先はとっくにしびれ、感覚はない。

朝になれば迎えが来るのだろうか。

そうしたらあたしはまた、あの屋敷に連れ戻され、間もなく生まれてくるお菊さまと若旦那さまの赤子の世話を、任されるのだろうか……。



第5話


その夜以来、若旦那さまの顔を屋敷で時折見かけるようになった。

普段は忙しく旦那さまについて、あちこち走り回っている方だったのが、機嫌の悪いお菊さまの要望に応じた形だ。

「ずっと家にいるのも、退屈なものだね」

だがそれは表向きな話しで、常にわめき散らし奥さまとの喧噪が絶えないことに、旦那さまの堪忍に限界が来ただけのことだ。

おかげで若旦那さまの田や畑の仕事を手伝うことは増えていたが、お菊さまとの仲がよくなったかと言われれば、そうでもないようであった。

それでもお菊さまの機嫌が少しは持ち直したのも事実で、家の中は静かになっていた。

「お前はいつもこうして、一人であれの面倒をみていたのかい?」

お菊さまが休んでいたりする時には、若旦那から声をかけられることも多くなった。

とは言っても、他愛のない言葉を一つ二つ交わす程度で、すぐに終わってしまう。

そんな気まぐれが、たまたま昼の縁側で行われていた時だった。

「あの子の名前は? 多津は知っているのだろう?」

草刈りを終えて戻って来た八代たちに向かって、若旦那はそう言った。

「お富のことですか?」

「お富、こちらへおいで。お菓子をあげよう」

冬に牛にやる草を刈って戻ったばかりで、汗をかき土に汚れ、真っ黒に日焼けしたお富は、首を横に振った。

あたしは盆の茶碗に白湯を注ぐ。

「おや、あれはどうしたものだろうね」

頂き物の落雁の一つを口に放り込むと、若旦那は白湯をすすった。

声をかけられたのだから、素直に寄ってくればいいものを。

お富はちらちらとこちらを窺いながらも、近寄ってこようとはしない。

「多津もいただきなさい」

あたしは作業の様子を見ながら、梅の形に押されたそれをつまむ。

ほんのりと広がる甘みは、口の中ですぐに溶けてほぐれた。

「儂は嫌われておるのかな?」

三人はそのまま、刈ってきたばかりの草を干す準備を始めている。

「照れているだけでしょう」

あたしは若奥さまのお下がりの、山吹色の着物を着てそれを見下ろしていた。

今は青いあの草も、乾けば細かいクズが飛び散って、目に入るととても痛い。

「飯の支度をしてまいります」

奥さまは寺へ出かけていていない。

旦那さまも寄り合いへ行ってしまった。

土間に入ると、すぐにお富がやってくる。

「裏切り者!」

「なにが裏切り者だ」

その声に、いつにも増してうんざりする。

「又吉さんと上手くいかなくなったってのは、若旦那のせいか!」

「誰がそんなこと言った」

「若旦那に懸想なんかしたって、お前なんか相手にされるもんか!」

「二度とそんな口、利けないようにしてやる!」

冗談じゃない。

変に誤解されて妙な噂でも立てられたら、困るのはこっちの方だ。

あたしは持っていた柄杓を投げつける。

わずかに残っていた水が、お富に降りかかった。

「楽しいか、男二人にかわいがられてさぁ!」

「違うと言ってるじゃないか」

「又吉と若旦那を、いいようにしやがって」

負けじとザルを投げつけてきた、お富につかみかかる。

お富はあたしを突き飛ばした。

柄杓で叩きつけてくるのに、膳で応戦する。

思いつく限りの雑言を浴びせた。

「くだらない喧嘩なんかしてないで、さっさと飯の支度をおしや」

じっと見下ろしていたのは、腹の目立つようになったお菊さまだった。

身重となった体で、家に引きこもることの多くなったお菊さまは、ふくよかな肌がよりいっそう白く透けて見える。

「お腹空いた。早うおし」

そのまま廊下の奥に消えてゆく。

あたしは立ち上がった。

「ほら、お前も動きな」

泣き虫のお富はすぐに泣き始める。

日に焼け、力仕事で鍛えられた腕は、それでも休むことなく、言いつけ通りに動かされていた。

めそめそと泣きながら作る飯ほど、不味いものはない。

出来上がった飯を座敷に運ぶと、あたしはお菊さまに声をかけてから退出する。

主人たちの残り物で賄う飯を、あたしは一人廊下の隅で済ませた。

どこかでまた、野犬の吠えているのが聞こえる。

月は大きく傾いた。

ガサガサと足音が聞こえ、狸と目があう。

どうせなら化けて出てくれればいいものを。

狸のままでは、助けも請えぬ。

心配事というのは思わぬところからやってくるもので、あたしと若旦那さまのことが疑われるよりも早く、奥さまと八代の件が旦那さまに知れた。

八代に対する旦那さまの態度は明らかに邪険となり、奥さまは奉公人たちに寄りつかなくなった。

腹を大きくしたお菊さまは、天下を取ったかのように大手を振るう。

「お多津、今日は出かけるから供をおし」

体調もよく、以前にまして遊び歩くことが増えた。

奥さまに厳しく反対されていた芝居まで見に行くと言う。

境内に建てられた簡素な屋根の下に、小さな舞台が出来上がっていた。

渡された金で水飴を買い、お菊さまに手渡す。

敷かれた筵の上に座れるのは見物料を払った客だけで、あたしはその周辺を取り囲む、立ち見の山の隙間からチラチラとその姿を垣間見た。

芝居唄のたおやかな声が朗々と響く。

その声とお囃子だけは、あたしにも届いていた。

「あぁ、いい声だ……」

派手な衣装に身を包み、軽妙な動きにどっと笑い声を浴びる。

明日にはまた旅に出る彼らは、風のように身軽に思えた。



第6話


血生臭い月夜に、大きな蛾がひらひらと宙を舞う。

それはあたしの額に留まろうとしているようだった。

「わっ、馬鹿、やめろ」

振り払おうにも、体はもとより、腕も動かせない。

眉間に留まったそれは、大きな羽根で目をふさいだ。

顔の肉を動かし、痛みに強ばる首を振って、ようやく飛び去る。

ある日見かけた八代は、顔に大きなアザを作っていた。

「あいつも馬鹿だよな」

相変わらずニヤニヤと気味の悪い又吉が、話しかけてきた。

「いくらなんでも、奥さまはねぇわ。色んな意味で」

横目であたしの様子をチラリと窺って、またニヤリとする。

「お前も調子乗って、ハメ外すなよ」

人気のない屋敷裏だった。

又吉の腕が伸び、あたしの肩をつかむ。

「やめろ」

振り払っても、簡単に引き下がるような男ではない。

積み上げた薪に押しつけられた。

「あいつみたいになって、ここを追い出されたくなかったら、若旦那とだなんて、夢見てんじゃねぇぞ」

「放せ!」

又吉の手が襟に伸び、帯を掴む。

「せめて大旦那さまとかにすればいいのにさ、お前もちっとは知恵を回せよ」

「嫌だって言ってんのに……」

「やめろ」

八代の声がして、又吉は慌てて体を離した。

「俺はすっころびそうになったコイツを、助けてただけだ!」

又吉は逃げるように立ち去って、あたしは泣き顔を見られないよう、崩れた薪を積み直す。

落ちていたそれを、八代は拾った。

「お前も大変だな」

「あたしは、あんたは悪くないと思ってるから」

その時にうつむいた、あの冷たい横顔の意味を、あたしは今になってかみしめているのかもしれない。

「そんなこと、手前で決めるもんじゃねぇ」

この人の、頬に残る酷いアザも、足にあるざっくりとした大きなかさぶたも、今のあたしと変わらない。

山中に縛り上げられ、放置され、寒さに震えているあたしは、あの時の八代と同じだ。

「決めるのは俺じゃねぇし、お前でもねぇ。いつだって自分じゃねぇ誰かだ。諦めろ」

一人になってしまった八代がその時はなんだか憐れに思えて、周囲の目を窺いながらも、なにかと気に掛けるようになった。

旦那さまがきつく当たるようになってから、一人でいることの増えた八代だ。

お菊さまの機嫌さえよければ、あたしにも少しくらいの暇はある。

鍋に沸かした白湯の残りを持っていくだけだったり、茹でたての枝豆の一房二房を袂から差し出すだけだったけれども。

初めはそんなあたしを黙って見下ろし、ただ受け取るだけだったのが、次第に言葉を交わすようになった。

奥さまとはすっかり疎遠になったようで、たまに二人でいるところを見つかっても、奥さまはぷいと顔をそらして、見て見ぬふりだ。

八代はそんな様子に、少しは気を楽にしているようだった。

「お多津、逃げるなよ」

蒲鉾の切れ端を分け合っていた時だった。

朝餉の味噌汁に入れるのを、こっそり残してとっておいた。

漬物と白湯とを一緒に盆に載せ運びこみ、納屋で縄をなうのを手伝っていた。

「逃げたっていいことは何もねぇ。逃げずにとどまっていることで、得られる証ってもんがあるんだ。俺がこんなになっても逃げ出さないのは、給金のためだけじゃねぇ。そんなことよりも、この村にいられなくなることの方が恐ろしいからだ」

村名主の旦那さまににらまれたら、奉公人でいられなくなるだけのことでは済まされない。

「俺は身の潔白を証明するために、ここに残ってるんだ。それを知っているのは、俺だけしかいねぇからな」

湿気くさい納屋の外では雨の匂いがして、最後の蒲鉾を飲み込む。

母屋から奥さまの呼ぶ声が聞こえた。

「あ、帰ってきたみてぇだ」

「お前ももう行け。ヘタなことすんじゃねぇぞ」

「うん」

椀を二つ載せた盆を持って、外に出る。

縁側に出ていた奥さまと旦那さまと、目があった。

しまった、見られたと振り返ると、八代は二人に向かって小さく頭を下げる。

旦那さまは鼻息一つで奥へ引っ込み、奥さまは真っ赤に膨らませた顔を強ばらせた。

杉の木に縛られたまま、うとうととしては目を覚ます。

秋の初めの虫の音が、一段と大きくなった。

寝付けないのは、それがやかましいからだけなのか?

全身のしびれにも寒さにも、すっかり慣れてしまった。

わずかに風が吹くと、自分の体がやけに血生臭く感じる。

夜が明ければ、本当に迎えは来るのだろうか。

屋敷に戻されたとして、それからあたしは、どうするのだろう。



第7話


奥さまはすっかりあたしを毛嫌いするようになった。

八代と懇意にしていると知ったからだ。

それを聞いたお富は、また何か余計なことを吹き込んだらしい。

「あんたがそんなだらしない女だとは、思わなかったよ」

食べ終わった膳を下げている最中だった。

廊下ですれ違った奥さまに、足を引っかけられた。

「恥を知りなさい!」

騒動に気づいたお菊さまが襖を開く。

ちらりとこちらを見ただけで、何も言わずにすぐに閉じてしまった。

あたしは転がった椀を拾い集め、こぼれた汁を拭く。

こんな他愛ない出来心のような悪戯は、何もそれから始まったことではない。

ただこの辺りから、いつもよりしつこくなっただけ。

奥さまがあたしを何かにつけて馬鹿にするのを、皆が面白がって笑った。

人気の消えたところで、又吉が近寄る。

「お前の正体がバレたな」

臭い息を耳に吹きかける。

どうしようもなく苛ついているとわかっているところへ、わざわざやってくるお前が悪い。

あたしはそのニヤついた顔に、思い切り桶の水をぶちまけた。

「てめぇごときが、余計な口利いてんじゃねぇ!」

返り討ちで、飛んで来た拳に殴られる。

その勢いで土間に倒れ込んだあたしに、又吉はまたがった。

胸ぐらを掴み、気の済むまで殴りつける。

ようやく終わったと思ったら、最後にどかりと蹴り上げられた。

「調子のってんのは、お前の方だろ」

又吉は唾を吐き捨て、土間を出て行く。

あたしは起き上がると、外へ飛び出した。

何を泣いているのか、なんで泣いているのかも分からなかった。

ただ目からあふれ出る滴を、止められないだけのこと。

離れの縁側の下に潜り込むと、一人でただ時の過ぎるのを待っていた。

「おや、今夜もどこかで子猫がないている」

その夜の障子は、開け放されたままだった。

「お多津、出ておいで。またそこで一晩中泣かれたら、うるさくて仕方がない」

若旦那は縁側に腰掛ける。

あたしはその隣に並んだ。

「また虐められたのか。好きだな、あの人たちも」

その時に何を話したのかだなんて、今はもう覚えていない。

あたしは若旦那の話を黙って聞いていて、真夏の月がその日に限って、目の眩むほど途方もなく大きくて、今夜の月よりも大きくて、鳴き続ける虫の音は果てしなく、この世の全てに響いていた。

「お前が又吉と八代の二人を、手玉に取るような奴じゃないって、分かっているよ」

その手が頬に触れる。

腰に手が回り、抱き寄せられる。

何も考えられなかった。

自分が空っぽになったような気がした。

「おいで。傷の手当てをしてあげよう」

手を引かれるがまま、あたしは座敷へ上がった。



第8話


お菊さまの腹はいよいよ大きくなり、産み月が近づいていた。

気が立つのも分からなくはないが、とにかく気分が落ち着かない。

暑い暑いと泣きわめくのを、うちわで煽いでいた。

「そのように苛つかれては、お腹の子に障ります」

間髪入れず、濡れ布巾を投げつけられる。

「お前の顔を見ているのが、一番気に障る!」

わんわんと泣き始めたお菊さまをどうしていいのか、もう何も分からない。

苦労など何一つ知らない人だ。

あたしと歳は一つしか違わないのに、裁縫と琴しかしたことのないような体は、むくむくと白く太りたおし、もはや饅頭か大福のよう。

廊下へ出ると、若旦那と鉢合わせた。

ビクリと体を震わせ、今までにないほど余所余所しい態度をなさる。

「あぁ。お多津か」

もじもじと言葉を濁らせ、あたしから距離を取るように離れた。

「こないだのことは済まなかった。忘れてくれ」

若旦那はそう言うと、閉じられたばかりの襖を開く。

「お菊。約束通り、多津とはケリをつけてきたぞ」

廊下にあたしを残し、ぐじぐじと泣いている大福の待つ部屋へ消えてゆく。

その時は何を言われたのか、さっぱり分からなかった。

土間へ戻り、投げつけられた手ぬぐいを干したところで、ようやく気づく。

「あぁ、お菊さまに知れたのか」

それでこのザマだ。

旦那さまに呼び出され、座敷に上がった。

そこにお菊さまと若旦那はいなかった。

酷く得意げに興奮した奥さまにわめき散らされ、それに旦那さまはますます腹を立てた。

又吉と八代、お富まで呼び出され、それぞれに勝手な話しを持ち上げる。

「へぇ。コイツは実にいい加減な奴でごぜぇまして……」

「私といたしましても、旦那さまや奥さまに対し、誤解を招くようなことをしていたのは確かでございます。しかし、私とお多津との間にはなにも……」

「この人はいつだって無精で怠けてばかりでごぜぇます! 面倒なことはいつも、わっしに押しつけて……」

ガザガザと枯れ草を踏む足音が聞こえる。

それは遠くから迫ってきていた。

やかましく鳴いていた虫たちが、急に静まりかえる。

縛り上げろと言われた時、真っ先にあたしの腕を掴んだ又吉の、あの気持ち悪い顔。

八代の取り澄ましたような、他人行儀の能面づらと、お富の勝ち誇り、興奮したしゃべり方。

若旦那と交わした夜と、何も知らぬお菊さまの、美しく艶やかな佇まい……。

気がつけば取り囲まれていた。

荒い息遣いと、よだれをすする舌なめずりまで聞こえる。

一匹? いや、もっとだ。

ヤバい、逃げなくちゃ。

逃げたいけど、逃げられない。

恐怖で体が震える。

衣紋掛けに干された、美しい花嫁衣装を思い出す。

塩焼きの鯛をまぶした握り飯の旨さ。

あたしもいつかあんな綺麗な着物を着て、お嫁に行くんだと思っていた。

幸せな結婚をして、静かに暮らす。

どうしてそれだけのことが叶わないのだろう。

縛り付けられ、身動きのとれないあたしには、どうしようもない。

鼻息荒く、じっとこちらを窺っている。

ぎゅっと目を閉じ、ガチガチと震える歯を食いしばった。

怖い。

全身が震える。

冷たい鼻先が、まだ感覚の残る肌に触れた。

ビクリと震えたあたしに、驚き飛び退く。

どうしてこうなった? あたしの何が悪かった?

なんで? 何がいけなかった?

真っ白な衣装を着て、想い想われた人のところへ嫁ぐ。

奉公人に意地悪なんて、絶対にしない。

優しい夫とその家族に囲まれて、まもなく生まれる子供のために産着を縫う。

鋭い牙が肉に食い込んだ。

引きちぎる勢いで血まみれの着物が破ける。

叫び声を上げた。

あぁ。それとも前に一度見た、旅芸人の仲間になるのもいいな。

美しい衣装を着て、お囃子に合わせて舞を舞う。

風のように駆け抜けて、どこまでも気の向くままに流れてゆく。

牙が喉元に喰らいついた。

明日、もしも明日、朝日を迎えることが出来たなら、あたしはきっと……。



最終話

暗闇の中に、小さな手が伸びる。

それは震える体を揺り動かした。

「またうなされておいでですか」

辺りは静かな闇に覆われていた。

尼僧は休んでいた寝所で体を起こす。

「ありがとう。助かりました」

「またあの夢にございますか」

尼僧は静かに笑みを返した。

「経を上げに参ります」

凍てついた廊下を進み、仏前に灯りを灯す。

尼僧と幼女は並んで手を合わせた。

あの夜からすでに、数年が経っていた。

「お助けください。まだ息がございます」

見るも無惨な姿の女子が、この寺に運び込まれた。

寝かされると、腫れ上がったまぶたをようやく持ち上げる。

「ここは? ここはどこにごぜぇますか?」

「安心なさい。あなたを傷つける者は、もうここにはおりませぬ」

「……。よかった……」

喰い破られた喉から、息が漏れている。

肉は削げ、骨まで見えていた。

先が長くないのは、誰の目にも明かだった。

「尼さんか。あたしは尼になるのか」

女子の頬を、血の混じった涙が伝う。

「戒名には、きっと風の字をいれておくんなせぇ。そしたらあたしは、もうどこにも縛られることなく、好きに……」

尼僧は経を上げ終わると、頭巾に隠された首筋に手を当てた。

「風信さま、夜明けにございます」

幼女の開いた扉から朝日が差し込む。

尼僧はその光に向かって、もう一度手を合わせた。




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