見出し画像

【本に生かされる 1】 四畳半神話体系

森見登美彦作の「四畳半神話大系」を読みました。

今回はその読書録です。


出会い

四畳半神話大系はいわゆる「腐れ大学生者」で憧れのキャンパスライフを夢見た夢見がちな男子学生があちらこちらと奔走をして、学生生活を棒に振るとうい話である。私も大学入学したての頃は自分のまだ見ぬ可能性、これから経験する色鮮やかな日々に心を躍らせ、期待に胸を膨らませ、意気込んでいた。高校の頃に勉学に勤しんでいたからこそ勝ち取った学生生活という自負があり、その勝利の美酒によっていたのかもしれない。まだまだ高校でたばかりの小僧のくせして、酔うなんて贅沢なもんだ。しかし私は周りの多くの人と良好で円滑な人間関係を育むことができず、そうした術も知らずに破滅した。私は主人公の「わたし」そのものだった。上京して出てきた都会は、切り離された孤島のようなもので、非常に孤独なものだと思う。誰もが違い、最初は距離が遠いのが知らない人であるが、そのような人たちと、真に深い関係を築くということは、私が本当は本気で欲していたものであったはずなのに、それを得る為のすべは誰も教えてくれなかった。今までは、周りの何もしていないのに常につきまとってくる人たちの絆に守られ、救われていたのだ。あの頃を振り返るとそういった何気ない何の益もないだろうと軽く見てきた人間関係への思いがじんわりと来る。

特に3回生の春休みは酷かった。大学生というのは年がら年中休んでいる人種で春休みは特に長い。私の大学では3回生になると、一旦サークル活動が落ち着き、専攻過程になり、学業に専念しだすというのが一般的な学生の流れであった。私は諦めきれずポロポロと行動する事にも疲れ、なんとなく興味のあった情報工学の学部に進学して、3回生に突入し、友達もほとんど作らず、漫然と日々を過ごしていた。春休みは虚無だった。昼も夜もなく何となく起きてはゲームやアニメを見て過ごし、腹が減ったら下界のコンビニに降りて行く。それだけ。何となく自分今なにしてんだろうなというという考えも頭に浮かぶが、深い絶望もせず、ただただ平坦に過ごしていた。

だがそんな生活の中に彩りを入れたのが、漫画やアニメの創作作品だった。四畳半神話大系は、大学生活のいつだったかは忘れましたが、そんな生活の中で見た作品である。そして私の荒んだ自意識を保つ重要な支えになっただろう作品だ。過去を少し許せたような気にさえなった。

不可能性

可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である。

この本に出てきたセリフである。
私以外の何者にもなれないという事実。それがもどかしいのであるが、どんと構えてなければいけない。不可能性に規定されるというのはどう意味だろう?なんとなくの想像に難くはないところであるが、具体的にスコーンと腑に落ちているわけでもない。まぁその腑に落ちていないところが、できない自分、なれない自分というものをきちんと認めていないという事なのだろう。

我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てのないものに望みを託すことが諸悪の根源だ。今のここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。

この言葉はしっくりきた。煩悩への執着といったところであろうか?けどただ毅然と堂々としているなんてなかなか出来ないんですけどね。

まぁいずれにしても夢のない秀才より夢見る阿呆の方でいる方がマシか!まだ救いようがある。夢見る阿呆万歳!

この記事が参加している募集

サポートしていただける方がいたらとても嬉しいです!いただいたものは継続的にコンテンツを作成していくために使わせていただきます。