ごめんね、なにもできなかった

たった今、乗り合わせた電車の中で、心が痛くなる出来事があった。

ほんとに今のいま、だからまとまらないし、私はどうしたいのかも分からない。

ただ、これを忘れないように書き留めておきたい。

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大きな駅のターミナルで、私が乗ろうとした電車は4分遅れ、と掲示板に流れていた。

ざわついたホームに降りたら、何度も流れるアナウンス。

あまり気にも留めていなかったのでそれが何の影響かは聞き取れなかったが、とにかく予定よりも少し遅れて入ってきた快速。

ドアが開いて、ひとがどんどん乗り込む。


と、そこに不穏な動きをする男性の姿があった。

ドアのすぐ内側に立ちはだかり、乗り込もうとする女性客にまるでラリアットをしようとするかのような動作で、近づいていく。

ひとりだけでなく、次のひと、次のひと、と同じ動作を繰り返している。乗り込もうとするひとに近づいては離れ、ドアの横の壁を軽く蹴ってみたりと、落ち着きのない様子で、彼はまるで周囲を威嚇するようにドア付近をうろうろしている。


よく見ると身体は大柄だったが、何となく顔にあどけなさが見てとれるし、学校の制服らしきものを着ているような気もする。

もしかしたら、高校生?


邪魔そうに顔をしかめて、お構いなしにどんどん乗り込んでいく男性たち。

私は彼からは少し遠い場所にいたが、別のドアから乗り込もうかどうしようか、一瞬迷った。


その時、私の左側をすり抜けていった中年の男性がその彼に近づいて、思いっきり体当たりをした。わざと強く肩をぶつけるようにして彼をひどく怒鳴りつけ、そのまま別の車両へと歩いて去った。

そのまま後から乗り込んだ私を思いっきり睨み付ける彼の目には、ただ強い戸惑いしかないような気がして、目が離せなくなった。


目が合ったまま、ドアのすぐ脇の補助席に腰掛ける。

彼は私に向かって拳を挙げる動作をしていたけど、こちらへ近づいてくることは、ない。隣には先に座っていた女性客がいて、スマホを手にしながらも彼のことをチラチラと気にしている。

周囲の乗客はみな遠巻きに離れたところからやはり、チラチラと怒声を上げながら壁を蹴り続ける彼のことを見ている。


こんな時に限って、電車はなかなか発車しない。


やっと動き出した電車の中でも、彼は落ち着かない様子でそわそわと窓の外を見たり、つま先で壁を蹴ったり、ドアの開閉ボタンを強く叩き続けたりしている。


どうしよう。


ーーーーー

「大丈夫?どこで降りるの?」

そう、ひとこと声を掛けたかった。


きっと彼は不安なだけなのだ。

予定通りに動かない電車の中で、ひとりでどうしていいかわからず戸惑っていて、早く家に帰りたい、それだけなんじゃないか、と私には思えた。

気持ちを落ち着かせてあげることができたら、きっとなんでもない。


彼は、電車の壁を蹴っている時も意識的に軽く足の力を抜くようにしている。さっきのおじさんにも何も手出ししたりしなかった。

ただきっと不安な心に追い討ちを掛けるように、理不尽な扱いを受けた怒りのやり場がなく、それを不器用に露わにしていただけなんだ。


けれど、ここで私が声を掛けてもし、彼の気持ちを余計に荒らしてしまって、大柄な彼が殴りかかる素振りでも見せたなら、彼が完全に悪者になってしまう。

そうでなくても彼の粗野な振る舞いに、車内は既に誰かが通報してもおかしくないような雰囲気になっていた。


でもたぶん彼は、本当にひとを殴ったりはしないだろう。

私は、いったいどうすれば良いのだろう。


揺れる気持ちを抱えたまま私は結局何もできず、ただなんとなく視界の端に彼の姿を捉えたまま、長い沈黙の時間が流れた。


彼は額に大粒の汗を流しながら、だんだんと静かになっていった。

窓の外を眺めながら、ぶつぶつと何かをつぶやいていたけどやがて口を閉じ、目をつぶって上を向いて動かなくなった。


そうして、ようやく電車は次の駅に着いた。

ドアが開くのを待ちきれないように、小走りに降りてホームを駆けていく彼。

車内に張りつめていた空気がすっと抜け、乗客たちは一様にホッとしたようにまた手元のスマホに目を落とす。

ーーーーー

ごめんね。

私があなたのお母さんだったら、頭からそっと抱きしめて「大丈夫よ。」ってささやいてあげるのに。


なすすべがない、ということばが嫌いだ。

けれど、こんな時にひとは無力だ。


私は、どうすれば良かったのだろう。


答えの出ない疑問を抱いたまま、ぐるぐるといろんなことを考えていたら、電車は乗換駅に着いていた。



今ごろ駅か家ではきっと、彼の家族がいつもより少し遅い彼の帰りを、心配しながら待っているに違いない。

大きな身体に見える幼い彼を、それでもいつまでも手を引いて連れて行ってはあげられない、葛藤を抱えながら。


もう少しだけ、誰かのことを余白を持って見られるような社会になれたらいいのに。

そのために、私にできることはなんだろうか。


そんなことを思いつつ、これ以上視線を落とさないように窓の外を眺めながら、私は家路を急いだ。


うちでは私のこどもが待っている。

遅くなって、ごめんね。



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