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推し、燃ゆ―読書感想というよりかは学び

 タイトルにある本を読んだ。
 なんだか感情移入が難しい主人公だなあ、と思いながら読み進めた。私の"推し方"とまるで違う。主人公の、あかりが「推し」を理解するために全力で追い続けようとする姿は私にとっては狂気だった。私は仮に推しと対峙したとき、推しに恥ずかしくない生き方をする―自己の自立に重きを置くので、推しに深入りするようなことはしない。
 いつもだったらこういう推し方もあるよね、と思って終わりにするのだが、本との向き合いを求めていた私はモヤモヤする気持ちを抑えられないでいた。

 結局、ラストまで主人公に思いを寄せることなく終わってしまった。うーん、これが芥川賞ってこと?純文学なるものを読んだ事がない私には何も分からなかった。読み終えたのが昼の12時55分。その日は平日で、私はOL。昼休みは13時には終わってしまうのに、あと5分でこのモヤモヤを消化しろというのは難しく感じたし、実際そうだった。

 ひとり、本の感想で苦しみながら15時には限界を迎えた。無理だ、ほかの人はなんと纏めているのだろう。そう思いすぐに検索した。
 サジェストに並ぶのは「面白い」「面白くない」「背骨」などの言葉がタイトルのあとに続いていた。やっぱり賛否両論なのかなと思ったところに、それがあった。

「発達障害」

 知っては、いる。それがなにを指しているのか。ただ、手は自然とバックスペースキーを押し、発達障害を調べていた。

 なるほど。なるほど、というのは簡単だけど、私が知識として知っていたそれは、知識以上の情報で溢れかえっていた。書かれてあることは私にはない特性で、あかりが?確かに妙にズレているとは思ったけど……と少し戸惑いを感じた。作中では主人公の「診断名」に言及はされていない。
 それから頭の中で作品を振り返り、あれやそれらをその特性が結びつけるのを感じた。言及はされていない。でもどうしてもそうである気がしてならなかった。私はある人にチャットツールで連絡をした。仮にAさんとする。

みどりこ:知見をお借りしたくご連絡いたしました。
小説を読んで分からないことがあって。芥川賞受賞の小説なんですが「推し、燃ゆ」という。
作品内で言及はありませんが、主人公は恐らく発達障害の特性があるようです。その中でも学習障害というのはどういった特性になるのでしょうか。


 Aさんは私の知り合いの中で唯一「自分は特性を持っている」と自覚している人だ。だけどそれは、病院で授けられたものではないと、Aさんが表情の読めない顔で言っていたのを今でも思い出す。

「私が特性があると知っているのは病院にかかったからだけど、その当時は発達障害なんていう言葉はなかったからね。だから私は、私の特性に名前を付けられることが嫌いなんだ。特性があるのは明らかだから認めるけど、それは名前という名の烙印なんだよ。何も気にせずに接して欲しい、それは私を構成する一部でしかないから」

 私は人によって態度を変えない、を心がけている。Aさんへの接し方についても他の誰とも変わらない。AさんはAさんで、自己の穏やかな性格で短絡的な私を受け止めてくれている。だからこそ、Aさんなら何か主人公の気持ちに近付けるヒントをくれそうだと、自分勝手ながら思った。
 そう思っていると早速Aさんから返信が届いた。

Aさん:一言で学習障害と言っても要因によって変わってきます。どのような様子の描写ですか?

みどりこ:例えば漢字のテスト。繰り返し勉強しても合格点をとることができないほどなのに、興味のあること―推しに対しては、推しの情報をノートに纏めるなどして覚えることは可能なようです。

Aさん:なるほど、受動的なインプット・アウトプットは出来ないが、能動的なインプット・アウトプットは出来るということですね。よくあることです。そもそも、読む、書く、聞くなどの辺りに問題があり、常人のインプット方法では不可能に近いです。

みどりこ:どういうことでしょうか?

Aさん:覚えられないことがあった時、何度も繰り返しノートに書くなどして覚えようとしますよね?そういうのが出来ないということです。熱量や努力がいくらあっても学習障害は克服出来ません。
覚えられないのではありません、出来ないのです。
なのでその興味のある事は、学校の勉強などとは違うルートでのインプットだったから覚えられた、のだと思います。経路が違うのです。

 覚えられないのではない、出来ないのです―……この一文が衝撃を与えた。学校の宿題を一切やらなかった怠惰な幼少期を過ごしていた私でも、ノートに書くということは「覚える」という動作の中でスタンダードなものだ。おそらく特性がない人は大体そうであろう。胸中がざわつく思いだった。
 私はあかりがどういった人物で、家族との対話ではどのような言葉を交わしたのか、どのような結末を迎えるのかを伝えた。Aさんは時間を惜しむことなく私に続けて教えてくれた。

Aさん:出来ないものは出来ません。努力云々の世界ではないんです。病気のせいにするな、という人がいるのならばそれはあまりに酷な話です。作中で診断名を与えられているなら、それは「あなたは普通の人じゃない」と烙印を押されているのと一緒なんです。
家族の様子を聞いても身近な人の理解がないようですね。まともに何も出来ないという烙印を押し続けられているのでしょう。正直、推しがいなければ死にたいでしょうね。
唯一、まともに出来た「推し活」さえも否定されたら、自死しか道はないように思います。なにせ推し活以外の成功体験は0なんですから。

みどりこ:成功体験0、ですか

Aさん:はい。主人公は今までも様々な壁が目の前に立ちはだかったでしょう。それこそ学校の漢字のテストの合否も。それらひとつひとつは小さくても、「出来た」という結果があればそれは成功体験になるんです。でも彼女は推し活以外でそれはない。一言で表すならば、生きているだけで地獄ですよ。

 成功体験0。生きているだけで地獄。私はこの話題をAさんに振って良かったのだろうか。足元から冷気が背中を伝い、頭の先まで冷やす感覚だった。このまま話を続けて良いものだろうかと、入力欄で指が止まったまま数分が過ぎた。
 すると待ちかねたのか「Aさんが入力しています」という文字が画面に表示された。ドキっとした。その文字列は表示されたかと思えば消え、また表示された。きっと推敲しているのだろう。そうしてパッとAさんの言葉は表示された。

Aさん:とは言え、主人公は推しに出会い成功体験を得ました。自分にも出来ることがあるのだと、生きながらにして地獄を生きている彼女が。それは「推し=背骨」を得たことで、推しを失っても自らの「成功体験=背骨」でもって四肢を支えられたのではないでしょうか?
幸せかどうかは別として「生きる」ことを選択した彼女は、とてもリアルを生きてるなと思います。

みどりこ:ありがとうございます。今さらですがお伺いしても良かったことなのか……。気分を悪くされなかったでしょうか。

Aさん:とんでもない。私はお伝えできて良かったです。共感できなかったでしょう、その本を読んで。でも知ることで見え方が変わりますから。作中で診断名に言及がないのならもしかしたら違うかもしれない、でも小説を読み解く上でその可能性もあるんだなと思うと世界が広がるでしょう。それは素晴らしいことですよ。

 そのあと一言二言交わしてチャットからログアウトをした。Aさんが教えてくれたことを反復して、作中本文を思い出し、またAさんの言葉を反復する。

 診断名に言及はない。言及がないということはあかりの「推し活」には全く関係がないから、取るに足らないことなのかもしれない。でも「リンゴ」のことをわざわざ「これはリンゴです」なんて表さないのと同じなのかもしれない。
 ただ分かったのは、あかりが生きている世界が地獄で推しが光だったということだけ。
 私の中のモヤモヤは消えていた。

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを賭けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。
  (推し、燃ゆ―62ページ)

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