見出し画像

私はこの身体を通して、世界とつながっていると実感した。

帰り道、信号待ちのときに見つめる白い花がある。

昨夜、その花を「見ている」のではなくて、ただその花を「感じている」とはじめて思った。

私は、週末に響きあった。

土曜の夜

海外の本がメインの古本屋で開かれているイベントに行った。来た人が自由に楽器を弾いたり、歌ったりできる。私は何も持たずに行った。ただただギターやベースを弾く人たちの輪の中で揺れていた。それだけで満たされた。私も参加しているという感覚を強く感じた。

日曜の午後

尹雄大さんというインタビュアーの人の講座。
テーマは「記憶を連歌する」

ちなみに連歌とは、中世に普及した詩のひとつ。ざっくり説明すると一人が5・7・5を詠んだら、次の人が7・7を詠む。また次の人が5・7・5を詠んで、他の人が7・7を詠む。そんなふうに次々と数珠のように歌をつなげていく。

連歌(れんが)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

それを今の時代に合わせて、日常で使っている言葉で話して、それを聞いて思い起こした自分の記憶を口にする。またそれを聞いた誰かが、自分の記憶の中から何か取り出して口にする。

畳の部屋で、9人で輪になり座って、一時間ほど途切れることなく、各々がその場で沸き上がってきた自分の出来事や感じたことなどの記憶を自由に口にしていった。

私は一時間ほどずっと黙ってほかの人の話すのを聞いていた。なんとなくタイミングを掴めなくて、口に出したいと思うことがなかったとも言える。

それでも、みんなの話を聞きながら、自分の中の記憶を巡っていた。最近頭の中を巡っている気持ちが目の前にやってきて、つーっと涙が出てきたり、「さみしい」と「さみしくない」について考えたりした。

一時間、言葉を発さずとも輪に参加しているような感覚になった。

昨夜と同じ感覚。
楽器を弾かなくても、言葉を発することをせずとも、ただ私がこの輪の中にいるだけで、存在しているだけでいいと思えた。そこにいる資格があるというか。いや、資格なんていう概念ははじめからなかったんだというくらい「いるだけでいい」ことは、あたりまえのことのように感じた。

黙っていても、聞いている。
聞くことで、私の中でいろんなことが巻き起こっている。
表にあらわれなくても、たしかに何かが起こっている。

日曜の夕方

その日の夕方、寺尾紗穂さんという詩を書いたり、ピアノを弾きながら歌を歌う人のライブに行った。

先に出てきた尹雄大さんの講座の中で、一ヶ月前に知って、はじめて生の演奏を聞きに行った。

開演ギリギリに到着して、急いで席に着いた。落ち着く間もなく、1曲目から徐々に揺さぶられて、2曲目から涙がぽろぽろと落ちてきて止まらなかった。

自分の記憶を巡った。
悲しくて悲しくてたまらなかった。
だけど、自分でも何が起きているのかよくわからない。

でもひとつ言えることは、その場で起こったことと、その時私の心のなかにあったものとが響きあっていた。私はこの身体を通して、世界とつながっていると実感した。(私は世界に身を浸しているように感じる。)わたしは、この身体を通して、何かを経験し、反応する。

だから、私は私の身体がちょっと大切だと感じた。すごいなぁって。感謝の気持ち。実感を持って、そういう気持ちを感じたのは、はじめてでうれしくなった。

この身体を通して、私はもっといろんなことを感じたいと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?