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記憶を連歌する

出会って、触れて、すれ違うために


定員に達しました。
日時:4月9日
時間:12時45分開場/13時〜15時45分(途中休憩15分) 
場所:浅草公会堂 第二集会室 
人数:10名
参加費:3,000円
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 誰かの話した記憶を連歌みたいに他の人と連ねて話していく中で、固結びみたいになってほどけなくなった記憶をときほぐすことはできないだろうか。

 仮に自分の話したことが他人に引き取られて、「その話で思い出したのだけど––」とズレてもいい。ズレるという断線が自分の内部で完結している記憶の境界を揺らがせることにはならないだろうか。

 最近、記憶について考える機会が多い。

 というのは、たいていの場合、人は今この場のことを話しているつもりでも、過去や未来に思いを馳せたり(「あのとき~すればよかった」「もし~が起きたらどうしよう」)、あるいは確実なことを言おうとして、検索した結果の既知を述べるだけになっていたりするから。ぜんぶ古びた記憶だ。

 そうなると、たとえば自分を見つめるだとか向き合うといっても、過去をほじくり返すことになるばかりで、それと省みることの違いが感覚的にわからなくなってしまってもおかしくない。

・過去をほじくり返すのではなく、現在を生きるために記憶を紡ぎ直す。あるいは綻ばせる。

・過去に原因を探るのではなく、現在にフォーカスするために、かつてについて語り直す。

 「記憶の連歌」では、誰かの話に私の経験が入り混じり、「あり得たかもしれない現在」と「そうではなかったかもしれない過去」がめぐっていく。大きな数珠をぐるっと送っていくような、そんな感じ。

 「出会って、触れて、すれ違うために」と銘打ったけれど、これは私が畏怖している方の発言で、それを聞いたときに深い得心があったので、ここに使わせてもらった。

  • 「出会って」とは、たまたまこの場にあなたと居合わせたこと。

  • 「触れて」とは、相手の話を聞いて、もしくは触発されて何か口にすること。

  • 「すれ違う」とは、これが私の現実だという思いがゆらいだり、そこから逸れていくこと。

 なにしろ初めての試みなので、どういう成り行きになるかわからないのが正直なところ。
 だけど、これまで僕がやってきた「その人の話をその人の話として聞く」「ジャッジしない」を一見すると違うようでいながら、より深いところで実践していく場になるのではないかと思っている。

日時:4月9日
時間:12時45分開場/13時〜15時45分(途中休憩15分) 
場所:浅草公会堂 第二集会室 
人数:10名
参加費:3,000円

申込先 nonsavoir@gmail.com
件名に「記憶の連歌」と書いてください。


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