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踊る暇があったら発明して(note初投稿)

 歴史に名を残した人物は、人の役に立つ何か新しいものを生み出した人だ。エジソンは白熱電球を筆頭に様々なものを発明し、デカルトはX軸Y軸でお馴染みのあの表を作ったかと思えば、「我思う故に我あり」という新しい考え方までも生み出して、この世を去っていったという。

 私はこれまでの人生を振り返った時、何か新しいものを生み出すといった経験をあまりしてこなかったように思う。
 誰かが作った学校という施設に通い、誰かが作った校則というルールに従い、誰かが作ったテストで100点をとって褒められて生きてきた。
 そして私は今朝目覚めてすぐ、スティーブ・ジョブズが作った箱を手に取り、知り合いが投稿した写真を眺めたあと、再び眠りについた。

 たしかに、これらのものは便利で役に立ち、私達の生活を豊かにしてくれていることは言うまでもない。しかし、このまま誰かが生み出したものを消費し続けるだけの人生でいいのかと思ってしまう自分もいる。
 私がnoteを始めたのは、そんな自分を変えたいという心の表れなのかもしれない。

なぜ作る人は少ないのか

 そうは言っても、誰もが歴史に名を残せるわけではない。そんな事が起こりうるとしたら、今頃受験の科目は歴史だけになるだろう。少数の作る側と大多数のそれを使う側という構図はいつの時代においても同じだと思うが、現代においては特にそれが顕著になっていると思う。では一体なぜこのような事態になっているのだろうか。

・作りたいものがないから

 理由のひとつに「作りたいものがない」という世の中になってしまったことが挙げられる。人が何かを作りたいと思う時、それは何かに対して不便や不満を感じていて、それを解消したいと思う時だろう。しかし大量の情報やコンテンツが溢れかえる今、不便に感じることは極めて少なくなり、たとえ不便と感じることがあっても大抵のことは既存のもので解決できるようになった。だからそもそも「自分で何かを生み出したい」というきっかけがないだけでなく、仮に何か作りたいと思ったとしても、他の人が既に生み出したアイデアやコンテンツに圧倒されてしまい、着手する前にモチベーションがなくなってしまう。

・失敗するのが怖いから

 何かを作りたいと思った時、ついつい「今の自分にはまだ早い」という自己暗示をかけて、準備に大量の時間を割いてしまった経験はないだろうか。
 ネット上に方法はいくらでも転がっているものの、失敗を恐れるがゆえに、準備のための準備をしてしまい、いつの間にか作りたいという気持ちを忘れてしまうことがよくあると思う。
 しかし当たり前だが、何かを作るためには作り始める以外方法はない。知識や経験がないからこそ、とりあえず作ってみることで今の自分に何が足りていないのかを知ることができるだろう。

・作ると批判されるから

 SNSにより、批判の対象に晒されやすくなったということが、このような状況を助長しているとも考えられる。もちろん、SNSによって多くの人に自分の作品やアイデアを知ってもらいやすくなったのは事実だ。しかし、みんなの役に立つものを作るためには、トライアンドエラーがかかせない。そのため、完成までの過程で生まれるコンテンツが批判の的となってしまう。「こんなもの作ってなんの意味があるの?」といったように。そんな批判によって途中で挫折してしまうということが多々あるだろう。だから何かを作るということは、世間の批判に負けないくらいの確信と情熱が必要だ。
 しかし安心して欲しい。コンテンツが完成したとき、人は手のひらを返して賞賛を始めるだろう。そしてこれまで駄作というラベルを貼られできたものが陽の光を浴び始める。「この人はこの時からすごかったんだ!」と。

・スマートフォンが普及したから

 家にパソコンがないといった人や、あっても使わないという人は多いのではないだろうか。それはスマートフォンというパソコンの必要な機能だけを詰め込んだ、手のひらサイズの便利アイテムが普及したからだ。
 スマートフォンは私たちの日常に欠かせないものとなった。しかしクリエイティブという点においてはパソコンに劣る上、他のゲームやSNSについ目がいってしまい、作業をするまでに時間がかかってしまうということもある。もちろん、動画編集や写真加工などある程度スマートフォンでも可能になった。しかし生産性を上げ、それなりのクオリティを追求しようとすると、スマートフォンでは限界がある。
 そういう点で、日ごろからスマホだけではなく、パソコンに触れることが重要だと思う。

世の中は本当に便利になり続けているのか

 今やiPhoneに劇的な進化は見られなくなった。これまでiPhoneは、5sで指紋認証という機能が追加され、Xではホームボタンが無くなるという劇的な変化を遂げてきた。しかし最近のiPhoneといえば、背面のカメラの大きさや数と共に、機種名に付く数字が上がるだけで、大きな変化は見られない。もちろん、性能を詳しく見ていけばパフォーマンスが上がっていることは言うまでもない。しかし、かつてのような「わくわく」をもたらす変化がないのだ。

 「これ以上新しいiPhone作らなくてもいいのでは?」と思ってる人は少なくないだろう。「一見すると劇的な進化を遂げた新しい箱」という意味の無い新しいものが生み出され、それを宣伝するためにSNSの運営会社は人間の本能さえも利用した手段を使って、私たちの注意を引き、時間を奪う。そこにインフルエンサーと呼ばれる人達がやってきて、作りたくもない動画や撮りたくもない写真をアップロードし、足止めに加担する。そしてまんまと足止めをされた私たちは、「他人が持っている」という羨ましさや「時代に乗り遅れたくない」という焦燥感から、意味のない箱にお金を払い、そしてまた数か月後に発売されるであろう新しい箱のために、せっせと働くのだ。

 では、なぜそこまでしてiPhoneをまるで劇的な進化を遂げたかのように宣伝し、販売する必要があるのだろうか。結論から言ってしまうと、それは私たちが生きていくためだ。
 仮に新しいiPhoneの生産が止まったとする。そうすると今までiPhoneの企画をしていた人や、それを売るために営業をかけていた人はどこから給料をもらえばいいのだろうか。それだけではない。iPhoneを作るための部品を作っている会社やそこで働く人はどうなるだろうか。さらにはその部品やiPhoneを運ぶ会社、売買の仲介に入る会社、宣伝をするインフルエンサーはどうなるだろうか。そして何を隠そう私たちはそれらの会社に入るために必死で勉強をし、それをサポートする会社さえ存在するのだ。

 こう考えると私たちはまるで意味のない循環の上で踊らされているようにも思える。世界では大国がiPhoneの部品の部品を作る会社をめぐって争っているという。しかしこのような経済活動のおかげで、ご飯を食べることができているのもまた事実なのだ。
 私たちはこの資本主義の終焉ともいえる時代に、何のために勉強し、何のために働き、何のために生きているのだろうか。誰よりもお金を稼ぐと幸せになれるという幻想をつかみ取るためだろうか。それは「作る側」になってみないとわからないことなのかもしれない。私たちはこのような現状に今一度疑問を抱き、新しい何かを発明する必要があると思う。

作ることによるメリット

 散々スケールのでかいことを言ってきたが、何も革新的なものを生み出すということだけが作ることの目的では無い。何かを作るということは自分で決めることができるという事と同じだ。
 例えばあなたがサッカーをする時、手を使ってボールを運ぼうとすると審判に止められるだろう。それはサッカーというゲームを作った人が手を使ってはいけないというルールを作り、あなたや一緒にプレーをしてる人がそれを認識しているからだ。
 では、あなたが新しいサッカーを作ったらどうだろうか。あなたは何から何まで自分で決めることができる。別にボールを使わなくてもいいし、ゴールをコートの真ん中においてもいい。そして、「あなただけ手を使ってもいい」というルールを追加することだってできる。

 そんなことをすると、あなたは批判を受けるどころか、誰もプレーする人がいなくなるかもしれない。しかし作るということはそういうことだ。いくらでも自分の都合のいいように作ることはできるが、それが度を超えると誰かに認めてもらうことは難しくなる。
 しかしあなたが良いと思って作ったのであれば、それでいいのではないだろうか。むしろ自己満足で終わるくらいが楽しいかもしれない。批判するだけの人生よりいくらかましな人生を送れるだろう。
 それに、あなたが生み出したことによって、それを認めてくれる人がきっといるはずだ。それを見た人が、「ゴールが違う位置にあり、手を使える人が増えた」ということから着想を得て、また別のスポーツを生み出すきっかけになるかもしれない。

さいごに

 「作りたいものがない」という人でも、一度くらいは「自分の店を開いてみたい」「曲を作ってみたい」「コミュニティをつくってみたい」「本を書いてみたい」と思ったことがあるのではないだろうか。
 もし少しでも作りたいと思ったことがあるなら、もう遅いとは言わず途中まででも作ってみてほしい。

 たとえガラクタを生み出したとしても、その過程で得られる楽しさや充実感、考えや想いはかけがえのない宝物になると思う。
 それに、ガラクタだと決めつけているのは「他の人」以前に「あなた自身」という場合もある。人に見せれば案外自分の才能に気づけることだってあるかもしれない。

 このnoteが歴史に刻まれることはないだろうし、私の名前が歴史に残ることはおそらくないだろう。それでも私の書いたこのnoteが、一人でも多くの読んでくれた誰かの心に残れば幸いである。
 そして誰の心に残らなかったとしても、何より今noteを書いていることが楽しい。だから私はnoteを始めてよかったと思う。


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