スマホが便利すぎて、最近自分で何も考えてなかった
最近、自分の頭で物事を考えることが少なくなった気がする。
何か分からないことがあればすぐに携帯を開いてしまう。そして検索欄に自分が調べたいワードを打ち込むと、それらしき答えが返ってくる。
その時は自分で考えて分かった気になるのだが、それは誰かが導き出した答えでしかなく、その場しのぎで手に入れた断片的な知識は翌日にはなくなっている。
それでも、すぐに携帯を開いて答えを求めてしまうのは、考えることが「面倒」だからだ。
インターネットが普及し、誰もが「早く」「簡単に」「正確な」情報を手に入れることができるようになったおかげで、生活がしやすくなったのは言うまでもない。
しかし合理性や便利さの追求が、「面倒くささ」から私たちを解放してくれる一方で、「手間や労力がかかるからこそ手に入る知識や経験」から私を遠ざけてしまっていることもまた事実だ。
今回は、情報社会で生きるZ世代の私が感じている弊害と、その対応策について考えていこうと思う。
自分の頭で考えないことの弊害
・自分の「意見」がなくなる
自分の頭で考える時間が少なくなったことに伴って、自分の意見が持てなくなった。
社会に出ると自分の意見を述べる機会が増えたが、いつもその場しのぎの意見に終始してしまう。
それっぽいことは言えるのだが、それらの言葉はどこかのインフルエンサーが言っていたようなことや、本に書いてあるような受け売りの知識の寄せ集めだ。
そこに自分の考えはほとんどなく、「私たちは新たな価値提供により、お客様と共に明るい未来を切り開きます」といったような何か言っているようで何も言っていないキャッチコピーのような意見にとどまってしまっている気がする。
・レビューを見ないと商品を買えない
何かを買うとき、ついレビューに頼ってしまう。もちろん、レビューに目を通すことは悪いことではないのだが、レビューの良し悪しだけでその商品の価値を判断してしまうことは良くないと思う。
私は何か欲しいと思った時、取りあえずAmazonの上の方に出てくる星の数が多くて悪い評価が少ない商品を買い物かごに入れる。
この時、自分が必要な商品の特徴だったり、これだけは譲れないポイントみたいなことは考えない。あくまで誰かが良いと言ったものを買う。
しかし、万人にとっての良い商品が自分にとっての良い商品とは限らない。
物が置けないくらい部屋が散乱している人が、ルンバを買ったところで意味が無いのと同じだ。
たとえレビューが悪かったとしても自分の必要な条件が備わっているのであれば、それは自分にとって良い商品と言える。
そして「レビューを見ないと買えない」ことが最も障壁になるのが本を買う時だ。
たとえ本屋で自分が面白そうと思った本に出合ったとしても、すぐに買うのではなく一度ネットでレビューを確認してしまう。
だから「自分が面白そうと思った本」がいつの間にか「世間で面白いと言われている本」にすり変わっている。
レビューが悪ければその本を買うことをやめてしまうし、良かったとしても「この本は面白くあるべきだ」という先入観と共にその本を読むことになってしまう。
そのせいで期待値が高まってしまい、面白かったとしても「あぁ、こんなもんか」と思ってしまう。
アウトプット力を高めるという教育方針が裏目にでている
私たちは「面倒くささ」からつい自分の頭で考えることを放棄してしまうが、最近の教育方針はそれに拍車をかけている気がする。
その教育方針とは、とにかくアウトプットの割合を多くしようというものだ。
教師が黒板の前に立って一方的に教える従来型の授業ではなく、生徒同士の教え合いやディスカッションを通して、生徒の考える姿勢を養おうとする。
この教育方針は一見アウトプットの増加と共に、生徒の思考回数が増えているようにも思える。
しかし、実際は生徒にアウトプットを求めすぎるがあまり、かえって生徒を思考停止にさせてしまっているのではないだろうか。
例えば意見を求められた時、「考えがまとまっていないので言えません」というのはタブーとされる。
それゆえ、「とにかく意見を言えばいい」「とにかくアウトプットすればいい」という思考に生徒が陥ってしまい、「どこかで拾ってきた言葉」や「教科書に載っている情報」を咀嚼しないまま吐き出すだけの作業に終始してしまう。
私たちが本当に養うべきなのは、手に入れた食材を適切に調理して、自分が食べたい料理を作ることができる能力だと思う。
つまり、インプットした知識を掛け合わせて、そこから自分なりの考えを導き出し、それを行動に落とし込むプロセスこそ、本当に身につけるべきアウトプット力ではないかというのご私なりの結論だ。
インプットした事をそのまま吐き出すことで、知識が定着するという側面はあるが、それは従来型の授業となんら遜色なく、そこに自分の頭で考えるという工程はほとんど存在しない。
ネガティブケイパビリティのすすめ
では、自分の頭で物事を考えるにはどうすればいいのだろうか。
この問題に対処するため、最近ネガティブケイパビリティという言葉が注目されているらしい。
ネガティブ・ケイパビリティの意味を調べると、「事実や理由を性急に求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」とでてくる。
簡単に言うと、すぐに答えを求めずに、1度立ち止まって考えようというとだ。
繰り返しになるが、私たちは「分からない」という状態が苦手なため、すぐに分かりやすい答えらしきものに飛びついてしまう。
例えば、にんじんとじゃがいもを持っているあなたは、何を作るべきなのか分からない状況にいるとする。
すぐに正確な答えが欲しいあなたは、黄色いパーカーのおじさんの所に行って、「にんじんとじゃがいもを買ったんですけど何を作ればいいですか?」と聞く。
すると「それだったら、カレー作ればいいと思いますよ。1週間くらい日持ちして食いっぱぐれないんで。」という答えが帰ってきて、あなたはカレーを作ることが絶対に正しいと思い込んですぐに調理を始めるだろう。
しかし、あなたが本当に食べたいのはカレーなのだろうか。もちろん本当にカレーが食べたいのであれば、それがあなたにとっての正解だ。しかし、大抵の場合そうでは無い。
もしもあなたがネガティブケイパビリティを身に付けることができたら、一旦食材を冷蔵庫に入れるという選択肢をとることもできるだろう。
するとあなたはスーパーに行った時にふと、糸こんにゃくを見つけて、自分が本当に食べたかったのは、にくじゃがだったと気づくことができるかもしれない。
それは、にんじんとじゃがいもが冷蔵庫にあるという事実が頭の片隅にあり、それが引き金になって自分の潜在ニーズを引き出すことができたからだ。
人生に絶対正しい選択肢はないと思うが、他の人が出した結論ではなく、あなたが自分の頭で考えて出した結論は、あなたにとって正しい選択だと思う。
黄色いパーカーを着たおじさんや、本棚に閉じ込められてしまった人にすぐ答えを求めるのではなく、1度立ち止まって自分の頭で考えてみよう。
「悩んだ末に出た答えなら、15点だとしても正しい」と誰かが言っていた。
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