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『タルトタタンの憂鬱』(米津玄師『メランコリーキッチン』より)


『タルトタタンの憂鬱』



 選択というものはいつも微妙なものだ。
 
 正しい選択と間違った選択、いい選択と悪い選択というものがあることは明白だ。
 しかし、肝心の選択は、自由という名のもとに我々の前に投げ出されているし、その良し悪しというのは、結果を見るまで本当には知りえない。振り返ってみて初めて、ひどく間違った選択を後悔しても、結果はもはや変えようもない。なぜなら、結果こそが、その選択の正誤を決めるからだ。それは、ルールを知らされないポーカーゲームのようなものだ。しかもそのルールは複雑に込み入っていて、同じカードが同じ結果をもたらしてくれるとも限らない。あるときは最高の切り札になり、あるときはどうしようもないブタカードになる。そんな理不尽なルールの中では、つまり、我々は実際には何も選択しえないということになるのだが、そうだとするなら、一体何を基準として、今、実際の目前にある選択を選びとればいいのだろう? 
 
 なんにせよ、起こったことは起こったことだ。どれほど策略をめぐらそうとも、相手の手札はわからないし、自分の手札を眺めたところで、一体なんの役になっていくのかすら定かでもない。それでもどうにか、それらしい手札を一枚、場に捨ててみてから、自分の失態を思い知らされたりする。
 
 僕個人のことで言うなら、大体が間違った手札を捨ててきたようなものだと思う。どうやら役付きのカードは全部捨ててしまったようで、手元に残っているのは、なんの役にもならないカードばかりだ。
 そのことに気づいてしまっても、やはりゲームは続いていくからには、僕はどうにかそれらしい顔をして、ゲームに参加し続けていなければならない。
 
 綺麗な黄色のワンピース姿の彼女を玄関に迎え入れた時、そんなことを考えていた。
 言葉にすればするほど真実から遠ざかっていくのを茫然と見ているしかない時というものはある。我々はいわば、そういう状況に二人で絡めとられていて、お互いがお互いの言葉をどこかはすかいに受け取りあっては、真実からずっと遠いところで罵り合っていた。僕はそんなゲームの一時休戦を申し入れ、彼女は同意した。そうして、しばらくの休戦期間を終えてゲームが再開されると、その選択すら、僕はまた間違えたのだと、彼女の顔を見て思った。これも一つの結果だと、受け入れるほかない。
 
 口角を強く引き締め、眉根を寄せ、彼女はじっと探るように僕を見つめた。僕の手札を品定めでもしようとするかのように。なんの手札も残っていないことがバレないように、僕もそのまま見つめ返した。

「ねえ、あなた、私のことをもう好きじゃないんでしょう。それなら、私たち、別れた方がいいんじゃない?」

 また選択だ。僕は言葉に詰まる。彼女を嫌いになったわけではない。そうではなくて、僕が彼女を愛しているというのなら、どんな選択が正しいのだろう、と考えて、言葉が出なかった。

 愛しているという一言は簡単だが、そうして彼女を僕の間違った手札の中に引き入れてしまう事は、本当に望ましい選択なのだろうか? 現に今だって、僕は彼女を、僕の間違った選択に巻き込んでいる。彼女が彼女の選択をするなら、僕はそれを僕の選択によって遮るべきではないのではないか? 彼女が僕と別れたいというのなら、それを受け入れるべきなのだろうか? もしもそうなら、今ここで僕が彼女に勝手な愛を伝えても余分な苦しみを与えるだけかもしれない。

 愛は選択によって決まるものではない。そうだとしても、選択をしなくてはいけない。たとえ何も選びえないとしても。

「まあ、ちょっとパスタでも茹でるから。あがって、食べていきなよ」

 またこうやって、一時休止を申し入れる。彼女は不満そうに顔を背けながらも、黙って部屋に入ってきた。選択を引き延ばしても、いい結果を得るわけではないと知りながらも、やめられずにいる。

 僕は背中に、彼女が小さなダイニングテーブルにふてくされて突っ伏している気配を感じながら、できるだけそのことは考えないようにキッチンに向かった。久しぶりの人の気配に驚くように、戸棚にかかるカーテンがわずかに揺れた。オーブンレンジは含みありげに沈黙して、僕を見ている。鍋にお湯を沸かす。パスタの箱を出したところで、それが二人分にはやや足りないことに気づいた。やれやれだ、と僕は思った。こんなふうに、何もかもが僕の失敗を待ち構えている。

 急遽、冷蔵庫を覗いてみると、しなびたポテトが二つ、惨めな顔をして身を寄せ合っていた。ずいぶん心許ないが、ほかに手もなくて、僕はそのカードを手札に引いてみることにした。軽く洗って、お湯のわいた鍋の中に塩とともに放り込む。箸でつつくと、それはくすぐったがるように踊り出す。さっきまでの惨めな顔も、少しはほころぶように見えた。適当なところで引き上げて、続けてパスタを茹でる。うっかり塩を再び入れてしまったことにも、入れてしまった後で気づいた。正しい札はどんどん手からすり抜けていく。

 今更どうにもならない。起こったことは受け入れるほかないのだから。

 僕は多少やけくそになりつつ、ポテトとパスタを皿に取り分け、温めたレトルトのソースをかけ、彼女に運んだ。彼女はテーブルに突っ伏したまま、つまらなそうにそれを見ている。

「こんなつもりじゃなかったんだけど」

 それ以外に言えなくて、僕は未練がましく彼女の前に彼女の分の皿を差し出した。彼女は僕に不思議そうな目を向けた後、皿に目を落として、少しだけ笑った。

 間違いだらけの選択の中でも、たまに正しい結果が微笑むことがある。

 彼女が黙り込んで皿をつつき回すのを眺めながら、味のないポテトと塩辛いパスタを一緒にしてソースを絡め、どうにか飲み下す。間違った選択も二つ合わされば、わずかに正しさの味を醸し出すことがある。それにしても完璧さには程遠く、彼女の方を見た。

 彼女は何も言わず、ただ一心に食事をするフリをしている。そんな彼女にかけるべき言葉も、彼女から聞くべき言葉もたくさんあるだろうとは思うのだが、いざとなるとすべてどこかへ行ってしまうようだった。公園に憩う白い鳩を、手当りしだいに蹴散らしていくように。

 この一口を飲み下した時こそ何か言おうと、フォークを口に運ぶたびに考えながらも、結局何も言えないまま、その気まずさをも飲み込もうとして、また一口と消えていった。彼女はお構いなしにポテトをもてあそんでいる。小さく切り分けて、パスタを巻いて持ち上げてみては、途中で思い直して、ソースを絡めてみたり。そんなふうにして、言うべき言葉をフォークでつついて見せることができたら、ずいぶん楽だっただろう。フォークの上できれいに整えたパスタを、彼女は丁寧に噛んで、飲み込む。

 気まずさだけを勢いのままに食べ終えてしまった僕は、急に手持ち無沙汰になってしまって、しばらく空になった皿に目を落とした。名残惜しむような食事ではなかったが、とにかく気を紛らわせるものがあるということは有り難いことだった、と奇妙な後悔を覚えた。
 彼女はまだ一口ずつ、のろのろと食べている。味わっているようにも見えるし、単に食が進まないだけのようにも見えるが、そんなことすら彼女に聞いてみないことには始まらない。いつだって、そうして選択を迫られている。なんと言うのか、言わないでいるのか。そして、選択を引きのばすということすら一つの選択となって、気づけば身動きが取れなくなっている。

 考えたって始まらない。どちらにしても、ろくな結果にならないのなら、どちらを選んでも同じことだ。つまりは、実際のところは何も選択しえない中で、ひたすらに受け入れていくしかない。そんなふうに僕は覚悟を決めようとしてみたが、口から出てくる言葉は簡単に僕を裏切った。

「そういえば、君が部屋に置いていったチェリーボンボンがまだ残っているよ」

 つまらそうに机に頬を乗せる彼女は、気乗りしないように、ふうん、とうなる。それからまた黙り込んだ。

「それにタルトタタンを焼いてみたんだけど、食べるかな?」

 できるだけさりげなく僕が言うと、フォークを皿の上で回していただけだった彼女が、やっと体を起こして面食らったような顔をした。

「タルトタタン? あなたが?」
「そう。タルトタタンっていうのは、アップルパイを作るのに失敗したときに、偶然にできたものだそうだよ」

 歓迎とも拒絶ともつかない調子で繰り返す彼女に、僕は言った。にわかに賢ぶったそんな説明など、おそらく求められていないことは知りながら、そうでもしないと心の置きようが見つからなかった。毒にも薬にもならないカードばかりが積み重なって、負ける気配を嫌がるばかりに、勝てる予感も遠ざかっていく。取り出すべき手札はどこかでわかっているのに、その手札のもたらす結果が怖くて、手の中でもてあそんでいた。

 いずれにしろ、結果は結果だ。僕は立ち上がって、キッチンのオーブンレンジを開けた。りんごの甘酸っぱい香りとバターの焼けた香りが温かい幸せの空気を含んで、ふらふらと彷徨いでる。

 そっと振り返ってみると、不機嫌さをほんのり和らげた彼女の顔が見えて、ようやくの正しい兆しにほっとした。
 しかしタルトを型から取り出してみたときに、僕はやはりまだ間違いの中にいることを思い知った。
 タルトは型から外れると、その窮屈さを恨んでいたかのように、いっぱいの汁気を滴らせてあっけなく崩れていった。ささやかな正しささえ、そうやって僕を嫌うのか。
 もはやタルトの面影さえ失って、ぐずぐずになったリンゴとタルト生地を乗せた皿を、みじめな気持ちで僕は机においた。

「ごめん。何もかもうまくできなくて」
「あなたっていつもそう」

 彼女は口元にいたずらな笑みをたたえながら、僕を睨みつけてみせた。その視線が心地良くて、僕は思わず顔を伏せた。崩れたタルトが僕を見返す。そんなタルトタタンになり損なった塊から、かろうじて形を残したリンゴ一つ、彼女はフォークですくって食べた。

「でも、私はけっこう、こんなのも好き」と彼女は笑った。
 彼女はもう一度フォークで一口すくうと、それを僕に差し出した。出来損ないのタルトをどうしてそんなに器用にすくえるのだろうか、と僕はいぶかりながらも、口に入れる。
「ほら、そんなに悪くないでしょう?」
 彼女が笑ってみせるので、そうだね、と僕は言った。そんなふうに彼女が笑ってくれるのなら、きっと悪くないのだろう。

 手の中でもてあそんでいた手札のことを考えて、僕は今度こそそれを彼女に差し出してみなければならないと思った。選択をし続けていられる限りは、いつかきっとどこかで望む結果が出るだろうと願いながら。それならせめて、下手な策略をめぐらすより、自分に素直であることの方がいくらかマシだという気がした。
 キャラメルの香りをまとった甘いリンゴが、温かく喉を通っていった。


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