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『カムパネルラ へ』(米津玄師『カムパネルラ』より)


『カムパネルラ へ』


 リンドウの花が、冷たい秋風に気持ちよさそうに揺られていました。うだるような夏から解放された川は、いっそう澄んで、軽やかに歌うように流れ、キラキラ輝いています。どこか遠くで、もの寂しげなオルガンの音が響いていました。
 ザネリは、右手に学生鞄を抱え、左手はずいぶん丈の足りなくなった学生服のポケットに入れ、橋を渡る手前でなんの気なしに口笛を吹き、そうしてから、少し立ち止まりました。川は変わらず優しく流れています。
 これから会う約束をしているジョバンニのことが浮かびました。みすぼらしい格好をした彼を標的にして、はやし立てていた時がもう遠くにあることを感慨深く思いました。ジョバンニとの記憶は、ザネリの中の最も苦い記憶と深く結びついていました。そして、それは同時に、カムパネルラとの記憶でもありました。
 耳の奥に聞こえるのは、自分を叱る父親の声でした。カムパネルラのようになりなさい、と言われて、たびたびお説教を受けていたことを思い出しました。ザネリは、自分のプライドが高く、怠け癖があることはよくわかっていましたが、父親にそのように言われるたび、なにか自分は間違って生まれてきてしまったんじゃないかという気分でした。
 同級の中でも出来の良く、せいの高いカムパネルラを、当時の自分は見上げるような心持ちで、どうにかして自分もあんなふうになりたいと、よく遊びに誘っては、彼の一番の友達になろうと努めていました。自分の取り巻きはたくさんいても、彼はどこか違うように思えました。
 一緒に活版印刷所の前で遊んでいた時、カムパネルラは急に、ここはジョバンニの働いているところだ、いるかどうか覗いてみよう、と言い出しました。印刷所を覗いてみるのは面白そうだと思って、ザネリもそうすることにしました。入り口の扉の小さな窓ガラスに二人で張り付いてみると、中は薄暗く、電灯がついていました。たくさんの金属片の入った棚がひしめくようにある中を、大人たちが口々に何か言いながら、行き来していました。その合唱の合間に、ばたりばたりと機械が拍子をとって、まるで印刷所全体が歌っているようでした。小さな金属のブロックが慎重に運ばれ、二人にはわからない規則で並べられ、取り除かれては、また並べられる様子はいつまででも眺めていられるようでした。なんとなく二人は、こんなところで働くジョバンニは特別なんだという気がしました。しかし、暗がりに目を凝らしても、ジョバンニの姿はそこにありませんでした。きっとその日はお休みをもらっていたのでしょう。
 そのとき、ジョバンニはすごいんだよ、とカムパネルラがもらすように言いました。ザネリは複雑な気持ちで黙っていました。なんと言ったらいいのかわからない気持ちでした。カムパネルラは続けて言いました。ジョバンニはとても頭が良く、優しい。大変な家の手伝いもして、お母さんの面倒も見ていて。しかし、そのことに不満も言わず、学校では明るく振る舞って、熱心に勉強している。すごい子だって、僕のお父さんも言っていた。
 ザネリは聞いていられないような気持ちになって、もういいよ、とぶっきらぼうに言いました。カムパネルラはハッとしたようにザネリの方を見て、黙りました。ザネリの胸の内には、どうにも言い表せない気持ちが渦巻いて、そのままカムパネルラを置いて家に帰りました。ザネリはそのときから、ジョバンニのラッコの上着のことをしきりに言い立てるようになりました。
 手前で立ち止まっていた橋の向こうから、自分を呼ぶ声が聞こえて、ザネリはわれに帰り、手を振りました。
 久しぶりだとお互いに言い合い、そろって河原を歩き出しました。黙り込む二人の学生鞄に無造作に入れられた花束が、ガサガサと音を立てて、時折、花びらを散らしました。
「あのときはほんとうに悪かった。ジョバンニ。僕は君に嫉妬していたんだ」
 そう言うザネリを、ジョバンニは少し首を傾げて眺めました。
「いきなりどうしたんだい」
「僕は本当に、どうしようもないやつなんだと言うことを、さっき思い出していたんだ」
 ザネリは思い出を反すうするように、一度黙りました。川のせせらぎと風の音が二人を包みました。
「カムパネルラが死んだのは、僕のせいだ。僕がたいへんに愚かで、間違っていたせいで、彼という正しい人が死んでしまったんだ」
 ジョバンニは黙っていました。
「昔よく父親に、カムパネルラのようになれと言われていたことを思い出していたんだよ。本当にそうだ。ここにいるべきなのは、僕じゃなくてカムパネルラだったんじゃないかと思う」
 ザネリは眉をひそめて、鞄をギュッとからだに引き寄せました。
「僕はいつまでもカムパネルラにかなわない。彼はいつでも僕の中にいて、今でも僕がいかに愚かで間違っているかを教えてくれる。どうしたって僕は正しくなんてなれない。そのことを忘れちゃいけないんだと」
 そこで短く息を吸い込んで、まるで早く言ってしまわないと喉が詰まってしまうというようにザネリは続けました。ジョバンニはそんな様子を見て、自分も少しからだが強張るような気持ちでした。
「それが、こんな僕がカムパネルラにしてやれる唯一のことなんだ。いつだって僕が生きているのは間違っているんだと思い続けているうちは、カムパネルラも少しは浮かばれるような気がする」
 言ってしまってから、ザネリはひどく苦いものを呑み込むような顔をして、その顔のままで笑おうとして、口を歪めました。
 ジョバンニはザネリの話を聞きながら、知らず知らずのうちに胸元の十字架のネックレスをもてあそんでいました。それは、教会で分けていただいたものでした。
 二人は大きな橋のたもとに着くと、それぞれの花束を川に流しました。暮れかけた陽に照らされて光る金色の川の上を、二つの小さくまばらな花束はゆらゆらと揺れ、ぶつかりつ離れつしながら消えてゆきました。河原の水ぎわに赤いボタンが一つ落ちていたのを、ザネリはひょいと拾い上げると、力一杯、花束の消えた方へ投げました。それは美しい孤を描いて落ちて行き、そしてまた、なにもなかったかのように川は夕暮れていました。
 それを眺めながら、ジョバンニは何度か逡巡するように口を開けたり閉めたりした後、ついに思いを決して、息を深く吸いました。
「人の生き死にというのはね、途中にたとえなにがあっても、最後には神さまがお決めになるものなんじゃないかと近ごろ思うんだ」
 ジョバンニは、そこに散らばる言葉をどうにか拾い集めようとするかのように水面に目を滑らせました。
「カムパネルラだって、本当に自分の命と交換にと思って、あのとき飛び込まなかったろう。きっと夢中で、どちらも助かるんだと考えていたんじゃないかな。それはカムパネルラの愚かさでもあった。自分の力を過信してしまっていたんだ」
 ジョバンニは、水面を見つめたままじっと動かないザネリの横顔が、夕映えて綺麗だなと思いました。
「ザネリ、僕たちはみんな、神さまの前では愚かなんだ。間違ってしまうからこそ、救い主を送ってくださったんだ。神さまのほかは、誰も誰かを本当には救うことはできない。あの川面から君だけが救われたのも、神さまのご意志だったんじゃないか、と僕は思っている」
「でも、君は神さまは信じないのだね」と言って、ジョバンニは困ったように笑いました。
「しかし、ザネリ、果たしてカムパネルラは君がいつまでも苦しんでいるのを見て喜ぶだろうか。君たちは友達だったんだろう? カムパネルラはいつか僕に、ほんとうのみんなの幸せのためなら百ぺんからだを灼いてもかまわないと言っていた。みんなの中には、きっと君もいるだろう」
 夜に向かってさらに冷たくなってきた風を吸い込んで、ジョバンニはわずかに身震いしました。
「『ほんとうのみんなの幸せ』がなんなのか、いまだに僕にもわからない。それでも、ザネリ、君が苦しむことが答えじゃないはずだと僕は思う」
 日はどんどん沈んでゆき、夜の気配が立ち込めてきていました。
「君はほんとうにいいやつだよ、ザネリ。だからカムパネルラも君と一緒にいたんだろう。君にからかわれていたとき、僕はほんとうに辛かった。それで、あのとき、そんなことをするのは、君が根っからのいやなやつで、ばかなやつだからだと思っていたけど、僕も間違っていたよ。君には君なりの考えと事情があったんだ」
 ザネリは声を殺して泣き出しました。ジョバンニも慰めるようにそっとその肩を抱き、静かに泣きました。
 二人の黄金色に染まった涙は、足元から迫る夜闇の中に消えてゆきました。


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