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Newコタまり第23号「俳句」

※以前書き溜めたコタまりを再構成してお送りしています。

去年今年こぞことし貫く棒の如きもの」

年末年始の時期になると良く耳にする句ですが、教科書なんかにも載っているので、比較的有名ですよね。
高浜虚子によって詠まれた句ですが、中学校で勉強した時は解釈の意味がさっぱり分からなかった記憶があります。

昔使っていた参考書が引越しの時に出てきて、思わず読みふけってしまいました。よくあるパターンですよね。全く片づけがはかどらない(笑)
こんな解釈が書いていました。

年は変わった。
だが、棒のような何物かが、旧年と新年をしっかり貫いている。

いやいや…。これだけではわからん…。

「棒」とは何だろうか?。
棒は一直線で単調、変化はないし、おもしろみもない。
「棒読み」「棒立ち」みたいな単語は使いますが、マイナスの言葉しか思い浮かびません。

「棒」とは何だろうか?
時間かな?と、とりあえずは考えてみる。
年が変わろうが変わるまいが、時間は流れる。時の流れだけは止めたくても止まらない。
でもよく考えたら時間なんてそもそも、人間が勝手につくり出したものだけど、実感としては、時間なるものが川のように、時にゆったりと、そして時には急激に流れているイメージがあります。
時間というものは、ずうずうしく、頼んだわけでもないのに勝手にやってくきます。やってきたかと思えば、たちまち立ち去ってしまう。

でも一方で、時間は過ぎ去ることで、耐え難い不幸や苦痛さえも和らげてしまう力を持っています。
よくよく考えてみると、時間は、人間がうまく生きていくための「知恵」なのかもしれない。なんて思うのです。

高浜虚子の句も、
「年は変わっても、時間は淡々と流れていますよ」
と解釈することもできるし、
「時間はいつものように流れているのだろうけれども、区切りははっきりあるのですよ」と受け止めることもできる。

俳句とは本当に奥の深い文学だと思います。
たった17音で、すべてをあらわすことなど不可能で、その裏にある意図を読み手の側に投げかける文学なんて日本くらいしかないと思います。
人によっても違うし、同じ人でも、年齢やその時の状態によって、解釈が変わってくるところも面白いですよね。

もう来週は12月かぁ…。
そんなことを考える、晩秋の夜でした。

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