なにも変えられなかったかもしれない。 自分が望む理想像に少しは近づけたのかもしれないけれど、 劇的な変化は得られなかった。 仕事に関しては、できる事が増え、任せてもらえる事も着々と増えていった。 そこは、自分でも褒めたい。 だけど、プライベートにおいては、 「依存」「執着」「鬱」「自分ではコントロールできない体調不良」「メンタルの不調」「常に付きまとう希死念慮」 何も変えられないどころか次第に悪化している。 ゆっくりではあるけど、前進していた時期もあった。
自分は何を望んで生まれてきたのか 人間は、生まれてくる前に自ら親を選び、前世でやり残したことを叶えるために新たな生を受けて生まれ変わるなどと耳にすることがある。 それでは、自分は何を目的にどんなことを成し遂げるためにこの世にこの場所で生きているのだろうか。 幼い頃から度々疑問を持ち、その時々の頭で考えたことがあるが、25そこそこではやはり答えは出ない。 学生時代は、家族にはお荷物だと言われ、サンドバックのように扱われ、常に母親の機嫌を取ることでなんとか人権を得ていた。
ついこの間まで寒暖差が…などと言っていたのにもうすっかり冬が到来した。 毎年恒例のこの時期がやってきてしまった。 冬季鬱 わたしの場合、年がら年中双極性障害の影響で情緒がジェットコースターのようであるけれど、 この時期の鬱は厄介極まりない。とても。 昔と比べるとかなり自分の情緒や感情をうまくコントロールできるようになり、飲み込まれることも減った。 なかなかに苦行を強いられたが、今となっては必要な経験だったと飲み込んでいる。 と同時に何事もポジティブに変換してしまう自
転職を機に環境ががらりと変わった。 以前、勤めていた職場では、滞りなく行っていた報連相についてはさほど形式ばったものではなかった。 だが、現在、働いている環境では、慣れない部分の方が多く、まるで今までの社会人経験が無碍になったような感覚に陥った。 報連相ができない 相手の顔色や状況を伺い、中々行動に移せないのだ。 社会人として社内外との連携を取り、業務を進めていく上で完全に致命的である。 自分の無力さ、そもそも戦力にもなりえない状況を認識し、悲しくなった。 なぜ
春が近づくにつれて色々考えることが増える。 “出会いと別れの季節”とも表現される春。 わたしにとって”春”は、過去の失敗や後悔から新たに目標を設定し、自分の目指す地点までがむしゃらにやり抜くと決心する時期なのである。 今回は、新年度に向けた決意表明のnote:) ちょうど今日で2月が終わる。 新年度まではもうすぐ。 現在取り組んでいる日頃の業務 これから取りかかろうと思案している事業 その先に考える自分の進みたい道 全部を自分の思う通りにやり抜いて悔いが残ら
“赦す”という言葉を理解し、自分の中に落とし込むことができたのはここ最近のことだった。 側から見れば、複雑な家庭環境で生まれ育ち、 多感な時期に慣れ親しんだ環境から離れて生活をしてみたり、 自己のアイデンティティが形成されるまでの期間で様々な経験をしてきた。 当時の自分は、 その時々の状況や自分の置かれている環境を必死に理解しようとし、 慣れるということで精一杯なあまり 自身を俯瞰的に捉えることがまだ出来なかった。 その過程で何度も悩み苦しみ、 自分の存在価