るぐらんかいえ/7月某日付の「雑記帳(大)」

Le Grand Cahier

# 1 書こうと思っていたものたち

※ テーマと、書く際に自分に課している「課題」についての覚書です(この中の、一体いくつが日の目を見られるのやら……)。

1.『響け!ユーフォニアム』について。物語に埋め込まれているベクトルを抽出し、その方向性を分析することで、キャラクターの個性の分布について考察するもの。これにより、なぜ黄前久美子が主人公なのか?といった疑問に、一応の答えが出るのでは?と思って書いて(考えて)います。

この難点は、主要なキャラを3つ(ないし4つ)のグループに分けているところです。キャラを一通りカバーしようとしているのもあって、なかなかまとまり切らないのです。この記事では、余計なレトリックを排して、すっきりと書くことを課題としています(これもまた難しいw)。

2.『劇場版PSYCHO-PASSサイコパス』について。これは、今夏(間もなく!)発売される同人誌に寄稿した「Books, Canons, and Violence――サイコパスは紙の本の夢を見るか?」の続編のような形で、『サイコパス』を特徴づける「本の引用」についての考察を検討しています(詳しくは、こちらをご覧ください)。

寄稿したものは、劇場版でF. ファノンが引用されたのはなぜか(についての深読みをするとどうなるか)? なぜサイードではなかったのか? そして、なぜそれが正解だったのか?……といった内容です。読んだら、たぶん『サイコパス』の世界では「強く」なれます!(確信w)

続編のようなものをちゃんと書くためにも、繰り返し『地に呪われたる者』を読み返していますが、はてさてどうなることやら。ただ、せっかくなので、同人誌の販促も兼ねて、2つの記事を併せて読むとよく判る感じに仕上げたいとは思っているので、このあたりが課題でしょうか。

3.『残響のテロル』について。国家の影として産み落とされたアテネ計画の子供たち。この生き残りであるハイヴ、ツエルブ、ナインの3人が、この順番(5→12→9)で死んでいったことに意味を与えるならば……といった内容の記事を、1年たったし、振り返りの意味も込めて。

これは「政治批評」というジャンル物の記事にしたいと思っていて(そういうものが「あれば」の話ですがw)、普段はやらないように心掛けている類の意味の読み込みや内容の外側まで踏み込んだ解釈をじっくりと仕込んで、寓意を汲み取りたいなー、と考えています。(なお、同じノイタミナの『乱歩奇譚』に見られるような迎合的な「政治」色に、やや辟易したのはさして執筆動機に影響を与えていません・苦笑)

4.『夏目友人帳』の世界観について。これは昔書いたものをリライトしようとしたものの、説明の過不足なんかが気になって、なかなか修正が進んでいないもの……となっています。

妖の世界と人間の世界が、鏡映しになっている……という内容なのですが、人間の世界=現実の(世俗の)世界についての説明を、どこまで詳しくするか(あるいは逆にざっくりとするか)といった辺りには、いつも頭を悩ませます。

# 2 解題

この記事のタイトルに援用した元ネタは、< Le Grand Cahier > で、これは『悪童日記』として邦訳されているアゴタ・クリストフの短編小説の原題です(堀茂樹訳)。原著は1986年にフランス語で出版され、意味は「大きな帳面」となります(なので、「雑記帳(大)」というは意訳としてつけたものです。手帳などだとcarnet の方が適語のようですが、上で書いたものも大風呂敷なので、サイズを少し大きめにとっても良いでしょう)。

『悪童日記』は、第二次世界大戦の中欧を描いた物語です。といっても、(ガルパンではない)「パンツァー・フォー!」的な戦争ではなく、銃後を描いたものと言えます。もちろん、銃後とはいえ、戦争で人も死ねば、兵隊も行き来しますが、それらの描かれ方が、少し特徴的です。

もう少し具体的に書くならば、これは筆者の故国であるハンガリーの田舎町(それもナチス・ドイツに一地方として編入されていたオーストリアとの国境近くの町)へ、(ブダペストを思わせる)大きな街から疎開してきた双子の男の子たちが強かに生き延びてゆく様を、子供の目線・子供の価値基準の語り口で描いた物語なのです。

ワタシがこの本を紹介してもらったのは、だいぶ前のことなのですが、それはシリア内戦、クリミア半島のロシア併合に続くウクライナ東部での戦闘、ガザへの侵攻などがあった昨年の状況を踏まえて読むと、また違ったものがあるよ、とのお薦めの言葉が添えられてのことでした。そして、その助言は実に見事に読んだワタシの関心を『悪童日記』へと惹きつけ続けてくれました。

これについては、読んでいる最中に一度、思わず呟いていました。

戦時下の田舎の町で暮らす双子は、ある日乞食の真似事をする。帰り道、二人は施しを受けたものを道端に捨て去る。このエピソードを結ぶ文章が次のものだった。「髪に受けた愛撫だけは、捨てることができない。」(アゴタ・クリストフ『悪童日記』)

そんな双子ですが、彼らは作文を書き、それをお互いに評価しあうことをします。この時、作文を判定するのにまつわるルールがあります。ここがなかなか上手いことを言っているので、その肝の部分を以下でご紹介したいと思います(これは訳者も同様だったようで、同じ個所があとがき(「異形の小説――あとがきにかえて――」)に引用されていました)。

「良」か「不可」かを判定する基準として、ぼくらには、きわめて単純なルールがある。作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。(引用は36頁)

これに続いて、いくつか具体的に例が挙げられているので、これらを〇✕方式で紹介しておきます。

✕ おばあちゃんは魔女に似ている
〇 おばあちゃんは“魔女”と呼ばれている
✕ 〈小さな町〉は美しい
 ※ 他の誰かの目には醜く映るのかも知れないから。
✕ 従卒は親切だ
〇 従卒はぼくらに毛布をくれる
〇 クルミの実をたくさん食べる
✕ クルミの実が好きだ
Cf. お母さんが好きだ
 ※ クルミの実が「好きだ」では、美味しさを「好き」と言っているのに対して、お母さんが「好きだ」は、一つの感情を指している。

こうして、結びに次の一文が来るのです。

 感情を定義する言葉は、非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめた方が良い。(同前37頁)

最後にもう一つ。これ以外にも面白い部分もありましょうが、今日はこれで締めることにしました。

市井の人々の叫びが、時としてキレッキレに鋭い、ということを上手く描写した部分です。

「あたしたち女が戦争をまるっきり知らないだって? 冗談もたいがいにしてよ! こっちは山ほどの仕事、山ほどの気苦労を引き受けてんだよ。子供は食べさせなきゃならないし、けが人の手当てもしなきゃならない……。それにひきかえ、あんたたちは得だよ。いったん戦争が終わりゃ、みんな英雄なんだからね。戦死して英雄、生き残って英雄、負傷して英雄……。それだから戦争を発明したんでしょうが、あんたたち男は――。今度の戦争も、あんたたちの戦争なんだ。あんたたちが望んだんだから、泣きごと言わずに、勝手におやんなさいよ、糞喰らえの英雄め!」(同前125頁)

書誌情報アゴタ・クリストフ(堀茂樹訳)『悪童日記』早川書房、1991年。
 ※ なお、現在は文庫版で入手できるようです。

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