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夜の水槽

久しぶりに銀座に行った。

20代の頃、私の職場は銀座にあった。
広い通りの交差点の角にある、洋服屋。
吹き抜けの高い天井いっぱいにガラス張りになっていて、
ブティックというよりショールームのようなその店は、
まるで街の中にぽんと置かれた、
大きな水槽のようだった。

交差点の信号が変わるたび、
人々がこちらに向かって歩いてくる。
ガラスの水槽へと、まっすぐに。
右へ、左へ、途切れることなく。

回遊魚のような人の群れに囲まれたながらも、
不思議と、「見られている」という意識はなかった。
「見ている」のは、いつも私の方だった。

客の少ない雨の日は、
ウィンドーに並ぶマネキン人形のあいだから、
道行く人々をぼんやりと見ていた。
晴れた日には、
雑巾片手にガラスを磨きながら、
やっぱり街を眺めていた。

仕事を終えると、もう外はとっぷりと暮れていて、
私は雑踏の中のひとりとなり、
店の前の信号を渡っていく。

振り返ると、まだ人の残っている店には
白々とした明かりが灯っていて、
なぜだか、そこに自分がいるような気がした。
ガラスの水槽の中にぽつんと立つ私が、
人混みにまぎれて歩く自分をじっと見ている。
そんな気がして、通りの向うに着いたとたん、
もう一度振り向かずにはいられなかった。
が、水槽の中の私は素早くマネキンの影に隠れてしまって、
姿を見せてはくれなかった。


夜の銀座の街に、その店は変わらずにあった。
くもりなく磨かれたガラスの向うで、
夏服を着たマネキンが私を指さして笑っていた。

白く輝くあの水槽のどこかに、
あの頃の私が、今も隠れているかもしれない。


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#眠れない夜に
これを書いたのは、もうずいぶん前のことで。こんなご時世になってから、もうぱったりと夜の街には出かけていない。あの水槽の中の私も、隅っこに座り込み、膝をかかえて途方に暮れているかも。いきいきと人々が行き交う街に、1日も早く戻りますように。


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