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お粥やの物語 第4章1-2 「先輩たちの温かい言葉に涙が止まりません」

「俺には並木が犯人とは思えない。貝原部長と山際課長が怪しくないか」
先輩の声には怒りが滲んでいる。

僕がいまいる場所は、休憩室の扉の前だ。中から聞こえて来た声に、入ることはできず、さりとて立ち去ることも難しくて、聞き耳を立てている。

「でも、送金は並木君のパソコンから行われたんでしょ」
女性職員の声には冷たい響きがある。
「仮に不正送金をするとして、自分のパソコンを使うかな。調べればすぐに足が付くじゃないか」
「並木君ならあるんじゃないの。彼には、おっとりしているところがあったから」
「いくらなんでも、そこまで馬鹿じゃないだろう」

蟀谷に汗が滲むのがわかった。ゴクリと呑み込んだ唾の音が妙に生々しい。
いかにして無実を証明するか……。
先輩たちに相談したら何とかなるだろうか。いや、それは難しい。それに、先輩たちが貝原に睨まれたら大変だ。迷惑をかけることは避けたい。

「でも、本当に、会社は警察に訴えないのかしら。二千万円は大金よ」
「会社にも面子があるからな。訴えはせず、並木に返金を要求するんだろう」
そんな大金、僕にあるはずはなく、請求先は両親に向かうとになる……。
そう考えると背筋がすっと冷たくなった。そんな親不孝は絶対にできない。

「もし、貝原部長が一枚噛んでいるなら、どうすることもできない。あの人、声の大きさと、狡賢さに関しては右に出る者はいないからな」
先輩の声を震わせた理由は怒りだけではない。恐れもあるはずだ。

浅黒い貝原の顔を思い浮かべながら、僕は歯ぎしりをした。
貝原は傲慢を絵に描いたような人物で、社長には腰が低いが、下の人間となると容赦しない。気に入らない相手に対しては、怒鳴り散らして人格を否定する。人事に手を回して降格させ、退職に追い込んだこともあった。
そんな非道が許されるのは、貝原が一介の部長ではなく、取締役の一人だからだ。さらに、社長のお気に入りときている。

「並木さんは無実です。あの人に悪いこはできません」
三人目の女性の声には涙が滲んでいた。その声には聞き覚えがある。同じ部署で働いていた、三年後輩の綾杉美紀子だ。
「並木さんに横領なんてできるわけがないてんです。上のミスで、私が仕事を押し付けられたとき、並木さんは黙って助けてくれました。お礼にと食事に誘うと、『そんなつもりで手伝ったんじゃないから』と笑って断ったんです。下心で、いい人の振りをする男とは違います」

そう言えばそんなことがあった。下心がない、と言い切る自信はない。
美紀子の無邪気な笑みを目にして、弱みに付け込むようかな気がして、断腸の思いで誘いを断ったのだ。

「そう言えば、私も並木君に助けられたかもしれない……。課長にネチネチと嫌味を言われていたら、並木君が強引に課長と仕事の話を始めたの。課長は『何で、いまなんだ』と嫌な顔したりけれど、彼は引き下がらなくて。それで私は解放されたんだけど、そんなことが二回、いえ、三回あったわね」
それも覚えている。正確には四回だ。いまにも泣き出しそうな女性職員の様子に胸が締め付けられ、気が付いたときには課長と対峙していた。

「並木はおとなしくて地味な性格だから、駄目な奴だと誤解されているけれど、間違いなくいい人間だ。正直者が馬鹿を見る、を地で行くような奴さ」
先輩は息の多い、低い声で続けた。
「俺が助けてやれたかもしれないのに……。何もできなかった」

「今からでも遅くありません」美紀子が声を大きくした。
「いまさら、私たちに何ができるのよ」
「並木さんの無実を晴らすんです。調べれば真犯人がわかるはずです」
「そんな簡単にはいかないわよ。もし、犯人が貝原部長なら、証拠は残さない。それに、私たちが嗅ぎまわっていると知られたらただでは済ませないわ。閑職に追いやられて、クビになるのは目に見えている」
「それでも、何かをしてあげないと……」
「その気持ちは私も同じよ」
「俺だって」
三人の声が途切れると、重たい沈黙が流れた。

気が付くと、頬を温かいものが流れていた。
次から次へと溢れ出した涙は滝のように流れ落ちていく。
こんなに泣いたのは、小学五年生のとき、鉄棒から落ちたとき以来だ。
そのときは痛みで涙が流したが、いまは違う。

僕は扉に向かって深々と頭を下げた。
ありがとうございます。でも、僕のことは気にしないでください。
みなさんに迷惑が掛かったら辛いです。僕が会社から消えることで一件落着なら、それで充分です。

もう一度、扉の向こうにいる三人に向かって頭を下げてから、背中を向けて歩き出した。
自分を信じてくれる人がいるというのは嬉しいものだ。
濡れ衣を着せられて、会社をクビになったのは悔しいが、先輩たちの温かい言葉に触れれて幸せになったのも事実だ。
彼らの言葉はお世辞ではない。本音なのだから。

エレベーターに乗る気にはなれず、階段を一気に駆け下りた。
建物の外へ出ると、生温かい風が全身を擦り抜けた。
頬を濡らした涙は乾いていた。

第4章2-1へ続きます。


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