お粥やの物語 第2章1-1 「夕飯が一杯のお粥では、物足りない気がします」
僕は歩を進め、店の前に立った。
三メートルほどの間口に、四枚のガラス戸が行儀よく並んでいる。
よく磨かれたガラスは乳白色で、店内の様子は窺えない。雨で湿った暖簾が、重そうに夜風に揺れていた。
お粥か……。
最後にお粥を食べたのは、小学四年生の冬、風邪で寝込んだときだ。母が用意した真っ白なお粥の上で、祖母が作った大きな梅干しが一つ、ゴロンと転がっていた。
お粥は嫌いではない……。
でも、お粥は体調が優れないときに食べるもので、元気とは言わないまでも、大きなリュックを背負うだけの体力が残っている男の夕飯には不向きだ。お金があれば、ガツンと焼肉かステーキを胃袋に入れたい……。
駅前のチェーン店で安い牛丼でも食べようか。それともコンビニで焼肉弁当を買おうか。
そんなことを考えながら背中を向けて一歩踏み出すと、美味しそうな匂いが鼻孔を擽った。濃厚な匂いではなく、ほんわりとした優しい鰹出しの香りだ。
お腹の奥が、グゥーと盛大に鳴った。
全身の力が抜け落ちて、動ける気がしない。
僕はゴクリと唾を呑み込んで、激しくかぶりを振った。
甘えるな。自分の置かれた状況がわかっていないのか。
帰る家もなく、お金もないのだ。
そう叱咤しても重い足は持ち上がらない。
一度くらい……いいかな。
苦境を乗り越えるためにはエネルギーが必要だ。
お粥の他にもメニューはあるだろう。
店構えからして、高級な店ではなさそうだ。
手招きするように、紺色の暖簾がゆらりと大きく揺れた。
僕はキャリーバッグと紙袋、リュックを手にして、店の引戸に手を掛けた。
予想に反し、古い引戸は音もなくすんなりと開いた。
店内から溢れ出した温かい空気が、雨粒が残る僕の頬を優しく撫でる。
客は一人もいなかった。店主の姿も見当たらない。
予想したほどに、店の中は狭く感じないのは、間口はないが、それなりに奥行きがあるからだろう。
細長い店内の右手には、奥へ向かって木製のカウンターが伸びていて、その下には椅子が八脚収まっている。
左側には四人人掛けの小さ目なテーブルが三つ、薄茶色の砂壁に寄り添うように並んでいた。
左の壁には、達筆な字で書かれた品書きが並んでいる。
梅粥に卵粥、それに店主のおすすめの三つだけ……。
値段は一律の九百八十円。
僕は思わず眉を顰めた。お粥のくせに、高くないですか。
この時間で客がゼロでは、繁盛していないのは明らかだ。
これでは商売は成り立たないだろう、と心配になってしまう。
そもそも「お粥や」というネーミングがいまひとつだ。
お腹をすかせた若者なら速攻で敬遠するだろう。ハンバーグやオムレツが好物の子供が「あの店がいい」と親の手を引くはずもない。
年配の人だって、週に何度もお粥を食べたいとは思わないに違いない。
お粥にぴったりな人と言えば病人だが、そもそも具合が悪ければ外食はできない。
ここは早々に、回れ右をするのが賢明だ……。
駅前の牛丼屋で並玉、ツユダクでも注文しよう。
そう心に決めて、踵を返そうとしたとき、店の奥から「いらっしゃい」と、穏やかながらも明るい男の声が聞こえてきた。
男の白くなり始めた髪には綺麗に櫛が通っている。体の線は細いが、華奢な感じはしない。年齢は五十歳前後だろうか。背筋が伸びた姿にはどこか威厳がある。
威厳と言っても、会社の上司のように、威張り散らしたり、相手を威圧したりするものとは違う。
着ている紺色の和服と薄茶色の前掛けを脱いでスーツに着替えれば、小学校の優しい教頭先生ができあがる。そんな柔らかい威厳だ。
「すみません。いらっしゃったのに気づかなくて」
店主は閉まっている引戸を流し見てから、僕に視線を戻した。
「古い引戸ですから、開け閉めのときにはガタガタと音がするんですが」
「そうなんですか。すんなりと開きましたけど」
店主は小さく首を捻ってから、「選ばれたのかもしれませんね」と低い声で独り言のように呟いた。
「選ばれたとは、どういう意味ですか」
「こちらの話です。気にしないでください」
店主は、いまの発言をなかったことになするように、声のトーンを上げて、「奥へどうぞ」と僕を急かせた。
優しく声をかけられたら、他人の頼み事を断れない性格の僕としては、店を後にすることなどできるはずもなく、退路を塞がれた感じだ。
「お好きな席に座ってください」
店主の心地よい声に促され、僕は手前のテーブル席に近づいた。
通行の邪魔にならないように、キャリーバッグをテーブルの下に潜り込ませ、向かいの椅子の上にリュックを置き、その上に紙袋を載せた。
そっと引き出した椅子の上に、躊躇いがちに雨で湿った尻を下ろすと、体の芯がじんわりと温かくなった。
第2章1-2へ続きます。
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