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【連載小説】 オレンジロード 9

僕は、事件に関係する二枚の紙切れを、憂鬱な気持ちで眺めた。
隣の健太の部屋から、女の子の笑い声が聞こえてくる。
弟には、もうガールフレンドがいる。

ときたま発作のように生じる壁に耳を当てたいという衝動を、どうにか抑えられるのは、兄としてのプライドがあるからだ。
僕が中学一年生のときは、好きな女の子を遠くから眺めているだけだった。それが、白川流菜だ。

流菜とは、中学の三年間、ただのクラスメイトとして過ごした。気が付いたときには、中学を卒業する時期を迎えていて、僕の初恋はそこで終わる予定たった。しかし、である。天は僕に味方した。
流菜が、僕と同じ精花高校を受験したからだ。

無事に精花高校に入学することができた二人ではあったが、同じクラスになるという幸運は、中学時代に使い果たしてしまったらしく、流菜は四組へ、そして僕は男だけの五組に押し込まれた。
それでも、流菜の姿を身近に見ることができたのは幸運だった。

二週間前のことである。
四年間、僕を見放し続けた気まぐれな恋の女神様が微笑んでくれた。
学校からの帰り道、愛車の自転車を走らせていると、前方を歩いている流菜の後ろ姿を見つけた。
距離が縮まるにつれ、心臓がバクバクと鳴り、背中は汗でビッショリに濡れた。傍から見たら、ストーカーか鞄を狙う引ったくりに見えたことだろう。

声をかけようかと迷っているうちに、自転車は彼女の背中に迫っていた。
次の瞬間、流菜は自転車の音に気づいてクルリと振り向いた。
僕は慌ててブレーキを掛けた。
自転車がよろけ、体勢が崩れて危うく転びそうになった。傾いた自転車を直していると、彼女の声が僕の鼓膜をゆらりと揺らした。

「大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
オウム返しに答えることしかできない自分が情けなかった。
そっと顔を上げると、流菜の笑顔が目の前にあった。
鼓動が聞こえてしまうのではないかと心配になるほどに、心臓は激しく動いていた。頬はかっと熱くなり、まともに流菜の顔が見られなかった。
それでも声を絞り出せたのは、いまから思い返しても信じられない。

「歩きなの?」僕の声は、裏返っていた。
流菜が、ピンク色の自転車で通学していることは知っていた。
「鍵を落としてしまったから、自転車を学校に置いてきたの」
「バスを使わないの?」
「こんなに天気がいいから、歩きたくなって……」
流菜の額には、薄っすらと汗が浮かんでいた。甘い柑橘系の香りが漂ってくる。彼女の家は、徒歩で三十分以上かかるはずだ。

無意識のうちの口から出たその言葉は、恋の神様が僕に言わせたとしか思えない。
「乗って行く?」
僕は猛烈に後悔したが、もう遅い。
彼女をデートに誘って撃沈した男子生徒の名前なら何人も知っている。

「いいの?」流菜は、大きな目で微笑みながら囁くように言った。
僕は、ぽかんと口を開けたまま、自分の耳を疑った。
しかし、その後の僕の行動は早かった。無我夢中のなせる技だろう。

「後ろに乗ってよ」
流菜は、横乗りの体勢で自転車の荷台に腰を下ろした。
「それで落ちないかな?」
下心があったわけではない。本心からそう思ったのだ。

細くて滑らかな手が、ためらいがちに僕のお腹の上に回った。
父のように下腹が出ていないことに感謝しながら、僕はお腹の筋肉に力を入れた。視線を落とすと、そこに流菜の白い手があった。

「行くよ」
僕は背中に向かって声をかけてから、ペダルを踏み込んだ。
何か話さなければいけないと思っても、口から声は出ない。
流菜も何も言わなかった。
それでも気まずいと感じることはなく、僕は自転車を走らせ続けた。

不意に、流菜が口を開いた。
「重くない?」
「全然、重くないよ。前に母さんを乗せたときは、子泣き爺を乗っけたいに重かったけれど、それに比べたら空気を乗せているみたいだ」
背中から、流菜のクスクスという笑い声が聞こえた。

「高見沢君は、高校に入ってから、ずっとこの自転車に乗っているでしょ」
「ああ……」僕は曖昧に返事をした。
やっぱり、こんなボロ自転車は目立ったのだろう。流菜も滑稽に思っているに違いない。まともな自転車を買うべきだった……。

「この自転車の色、とても素敵。世界に一台しかないでしょ」
僕はゴクリと唾を呑み込んで、耳の奥に神経を集中した。
「私もこんな橙色の自転車が欲しかったの。でも、市販しているものにはなかったから」
それはそうだ。こんな色の自転車を欲しがる人はいない。

「なんで、こんな色の自転車が欲しかったの?」
「秘密……」流菜は甘い声で囁いた。
風が、熱を帯びた頬を冷やし、額に滲んだ汗を飛ばした。
「今度、海辺を自転車で走ろうか……」
とんでもないことを言ってしまった。これでは、デートの誘いにしか聞こえない。今日の自分はどうかしている。本当にどうかしている……。

「はい」流菜の返事が、僕の背中を触りと撫でた。
言葉を失った僕の耳に、流菜の歌うような声が流れ込んできた。
「夕焼けの中を、自転車で二人乗りしてみたい……」

僕は、その幸せな時間をおしみながら自転車を走らせた。
彼女の家の近くで自転車を止め、二週間後の土曜日にサイクリングへ行く約束を取り付けた。
僕が夢心地で、自宅まで自転車を走らせたのは言うまでもない。

オレンジロード10へ続きます。


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