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お粥やの物語 第3章2-1「謎に満ちた四人は、僕を食べるつもりかもしれません」

自分の心臓の鼓動を聞きながら、一、二、三と数える。
五十を超えたところで薄目を開けた。
目の前に白髪頭の老人の皺だらけの顔があった。瞬きをするたび、白い眉毛が毛虫のように蠢いている。

僕は慌てて瞼を閉じた。目尻から涙が零れ、頬を伝わって流れ落ちていく。
さらに五十数えてから、もう一度、針金のような細さで瞼を持ち上げた。

今度は、禿げ上がった頭を赤くした老人の顔が、鼻先から十センチくらいのところにあった。老人は、夏休みの自由研究でアリの生態を観察する小学生のように、僕の顔をまじまじと覗き込んでいる。

息を止めたまま、僕はギュッと瞼を閉じた。目尻から大粒の涙が滴った。
心臓は、いつ止まってもおかしくない激しさで鼓動を打っている。

「いつまで目を瞑っているのよ。男のくせにだらしないんだから」
その声には聞き覚えがある……。
稲荷神社で手を合わせたとき、僕を叱った女の声だ。
どうして、いままで気付かなかったのだろう。
レオタード姿に気を取られていたからではない。多分、きっと。

覚悟を決めて、僕は瞼を開けた。
女の人の顔がゆっくりと迫って来る。ふっくらとした唇の隙間から、赤い舌先が覗いていた。
脳裏に、生き血を吸われて、青白い顔をした僕のやつれた姿が浮かんだ。

「助けて~」
僕は畳の上で腰を滑らせて後ずさりしたが、背中が壁にゴツンとぶつかり、それ以上逃げられない。

「失礼ね。頬にキスをしてあげようとしたのに」
女は赤い唇を尖らせた。

チュウをしてから、ガブリといくつもりなんでしょ……。
僕は土下座をして謝った。
「すみません、すみません……。どうか命だけは助けてください」

四人から、声は返ってこない。
僕は、額を畳に擦り付けながら謝り続けた。
「僕は悪人ではありません。子供の頃から、悪事に手を染めたことはないんです。先生や親に叱られるような悪戯はしましたが、それはたいしたことじゃない。子供なら誰でもするようなかわいいものです」

僕は、なおも言葉を絞り出した。
「もしかしたら、会社の件で、僕に罰を与えようとしているんですか。あれは冤罪です。いつのまにか、僕が犯人にされていて……。無実なんです」

「それくらい知っているわよ」
女の人の素っ気ない声に、僕は恐る恐る顔を上げた。

いつの間にか、四人は畳の上でくつろいでいた。
二人の老人は将棋を指し、その隣で女の子は赤いボールを撫でている。レオタード姿の女性は大胆に開脚し、上体を倒してストレッチをしていた。
女性は一見すると二十歳くらいに見えたが、もっと上のようだ。目尻に数本の小皺が浮かんでいる。もしかしたら、三十を超えているかもしれない。

「失礼な男ね。私は女子大生の設定なのよ」
設定とは、どういう意味だろう……。コスプレの延長だろうか。
いや、いま気にすべき点はそこではない。
僕は考えを口にしていない。それなのに、なぜ、女の人は僕の考えがわかったのだろう。

「もしかして、僕の頭の中が読めるんですか」
四人が同時に頷き返した。ピッタリと息の合った様子に寒気がした。
僕は胸の中で唸った。嘘だろう……。

「嘘じゃないわよ。わかるのは、あなたが、いま考えていることだけじゃない。あなたが、いままで経験したことも全部わかるわ」
女の人の声には棘がある。三十歳くらいと思ったことを根に持っているらしい。
「根になんか持っていないわよ」女の人がピシャリと言った。
やっぱり、根に持っている。

「僕を食べるんですか……」
「そういうゲテモノ趣味はない」禿げた老人が重々しい口調で言い、白髪の老人が「考えただけでゾッとします」と口許を苦々し気に歪めた。
女の人は「私はベジタリアンなの」と興味がなさそうに答えた。
「人間は、美味しいの?」と呟いた女の子に向かって、白髪の老人が「お腹を壊しますよ」とやんわりと諭した。

第3章2-2へ続きます。


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