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お粥やの物語 第2章4-2 「感謝の気持ちがあっても、それが口にできない僕は、まだまだです」

「部屋をお貸しするのはかまいませんが」と前置きしてから、店主は入居条件を提示した。
一から二は、火の元に注意することや、深夜に騒がないことなど、当たり前の事項だったが、三つ目からはがらりと様相が変わった。

その三、奥にある四つの部屋の扉は絶対に開けないこと。
その四、自室いるときは、できるだけ内から扉に鍵を掛けること。特に夜寝るときは順守するべし。

三番目の、四つの部屋の扉を開けないという条件は当然である。他の人が住んでいる部屋の戸を無断で開けるのは非常識だ。気になるのは「絶対に開けない」という言葉の中に、その住人の許可を得た場合が含まれているか否かだが、そのときになってから考えればいいだろう。

それより注目すべきは、四番目の条件だ。
一階は店舗であり、奥の住居で店主が一人で暮らしている。
店の扉を閉めてしまえば、侵入者がふらりと入って来る心配はないはずだ。
つまり、夜中に僕の部屋を訪問する輩がいるとしたら、四人の住居人ということになる。

そいつらが、僕の寝込みを襲うのだろうか。
いやいや、それはない。僕は男だ。女性のように用心する必要はない。
面倒な住居人がいると考えるのが自然だろう。プライバシーを守らず、軽い気持ちで、醤油を借りに来る奴がいるのかもしれない。
それとも、よからぬものが出るのだろうか……。

頭の中で駆け回っている疑惑を口にしかけて、僕はその言葉を呑み込んだ。
あまりにもしつこいと、店主が「なかったことにしましょう」と言い出すかもしれない。それだけは回避しなければならない。

きっと店主は、店子に、もしものことがあってはいけないと心配しているのだ。物騒な世の中だ。いつなんどき、強盗が侵入するとも限らない。
そう自分に言い聞かせ、僕は「条件は守ります」と緊張した声で答えた。

店主に続いて狭い階段を下り、一階に戻った。
僕は、店主から手渡された用紙に、自分の名前と携帯電話の番号、実家の住所、保証人として父の名をすらすらと記入した。
ペンの動きが止まったのは、勤務先の欄を目にしたときだ。解雇された会社の名前を書くのは虚偽記載になる。しかし、無職ではまずい。
解雇されたのは今日、ついさっきまでは、立派な会社員だったのだ。それなら、数時間前に戻ったつもりで、会社の名前を書いても許されるのではないか。とりあえず、僕が許す……。
ゴクリと唾を呑み込んでからペンを走らせた。

リュックの中から探し出した三文判で押印し終えると、店主は僕に三つの鍵を手渡した。
七号室という札がついた二つの鍵と、店の戸の鍵が一つ、三つとも電灯の照明を浴びて鈍く光っている。

リュックを背負い、キャリーバックと紙袋を手に、階段へと向かう僕の背中を、店主の声がさわりと撫でた。くぐもった声は小さくて聞き取りづらい。
訊き返そうとして振り返ったが、すでに店主の姿はなかった。
「お気をつけて」と聞こえたように思えたのは、気のせいだと思いたい。

僕は重たい荷物を手に、ふらつきながら階段を上り、新しい住処となる部屋の前に立った。
さっきは気づかなかったが、扉の上端に小さな文字で「七号室」とある。それは毛筆で、焦げ茶色の木製の扉に直に書いてあった。

扉の前に荷物を下ろしてから、僕は忍び足で廊下の先へ進んだ。
すべての扉に部屋番号が記してあった。階段に近い僕の部屋である七号室から始まって、六号、五号と続き、炊事場を挟んで、三号、二号、一号と並んでいる。縁起が悪いということで四の数字がないのは、昨日まで住んでいた社宅と同じだ。

七号室の前に戻ると、ズボンで掌の汗を拭いてから、鍵の掛かっていない扉を開けた。三十センチほど開いたところで腕の動きを止め、できた隙間から中を覗き込んだ。当然のごとく、六畳の和室には誰の姿もない。
もしかしたら、部屋の真ん中で、見知らぬお婆さんがチョコンと座り、お茶を啜っていのではないか、という妄想が消えると、口許に笑みが滲んだ。
そんなの、いるわけないよな……。

扉を全開にしてから、キャリーバッグと紙袋を部屋の中に入れ、リュックを畳の上に下ろした。
リュックの隙間から覗いている、垂れ目のポンちゃんもどこか嬉しそうだ。

大きく息を吐き出すと、全身から力が抜け落ち、僕はその場にへたり込んだ。そのまま背中から倒れ込み、畳の上で大の字になって瞼を閉じた。
畳の懐かしい感触と、優しい匂いがとても心地いい。
頭の中に、和室で背中を丸めている祖父の姿が浮かんだ。

社宅を追い出されたときはどうなるかと思ったが、捨てる神あれば拾い神あり、である。
夜の公園で、段ボールにくるまって寝ることに比べたら天国だ。
それも、今晩だけでなく、これからずっと続くと思うと、目頭が熱くなる。
帰る家があるというのが、こんなにも幸せとは思わなかった。
感謝、感謝である。

感謝か……。
そう言えば、祖父は「何事にも、感謝の気持ちを忘れるな」とも言っていた。
僕が肩を揉んであげたときも、重たい荷物を持ってあげたときも、いつも「ありがとう」と笑って、僕の頭を優しく撫でたものだ。

僕は、感謝の気持ちを忘れがちだ。誰かに親切にされても、当たり前だと思うことがある。
それに、祖父のように「ありがとう」とか「ありがとうございます」という言葉が自然に口から出てこない。恥ずかしさがあるからだ。
些細な親切には、「どうも」とか「すみません」と言って済ませてしまう。

そう言えば、お粥やの店主に、きっちりと感謝の気持ちを伝えていなかった……。
祖父が知ったら、不出来な孫を叱るだろう。
明日になったら、忘れずに感謝の気持ちを伝えよう。

とろりとした眠気に包まれて、僕は眠りに落ちた。

第2章5-1へ続きます。


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