お粥やの物語 第1章2-2 「常連客の神山さんは一見おだやかそうです」

カラカラと乾いた音を響かせながら引戸が開き、パナマ帽を被った初老の男が入って来た。

「今日もお客さんはいませんね」
パナマ帽を脱ぎながら、老人は少し黄ばんだ歯を剥き出して弱々しく笑ってみせた。

その笑みは同情しているようでもあり、安心したようにも見える。
人混みが苦手で、静かな場所が好みの老人にとって、貸し切り状態の店はオアシスと同じなのだろう。

汗で額に貼り付いた細い髪の毛は七割がた白くなっている。
頭頂部の髪はぺったりと潰れているが、七十という年齢の割に少なくない。
豊富な髪とは対照的に、手足は骨と皮ばかりで、年相応に老いて見える。

三つあるテーブル席の横を進み、老人は指定席になっているカウンターの奥から三番目の席に腰を下ろした。
肩から斜めに掛けていた茶色いショルダーバッグを左の椅子の上に置き、その上に黄ばんだパナマ帽をそっと載せ、黒い杖は椅子の背凭れに立て掛けた。

老人の名前は、神山健太郎。
お粥やの常連で、戸の音で人物を特定できる一人でもある。
綽名は「神さん」ではなく「山さん」だ。

神山の戸の開け具合は、音の高さは均一で、早くも遅くもならず、戸が止まる直前に少しだけ高くなる。

この季節に合わせて、ぬるいお茶の入った湯呑を神山の前にそっと置いた。
寿司屋に置いてあるような大きな湯呑を、神山はゆっくりと両手で持ち上げ、口を付けた。

ゴクリと突き出た喉仏を上下させながら、一気に半分ほどお茶を飲んでから、神山は湯呑をカウンターの白木の上に戻した。
コトリと柔らかい音が店内に響く。

「ついさっき、誘惑に負けて、自動販売機で缶コーヒーを買おうとしたんですが、幸いにして財布を忘れましたね」

もともとは甘い缶コーヒーが好きな神山だが、知人から「余命十年だぞ」と脅されてから、余程のことがない限り手を伸ばさない。

「道路の先に、大きなリュックを背負った若い男が立っていたんです」
神山の話は、聞き手にお構いなく、あちらこちらへと飛び回る。
それは老いのせいでなく、初めて店に現れた十年前からそうだった。

「その男の顔を見て、ピンときたんです。それで慌てて声をかけたんですが、逃げられてしまって……。いいカモだと思ったのに」
神山は口許の皺を深くして苦笑し、胸の前で腕を組んだ。

いいカモとは何だろう……。
その青年が逃げ延びたことを喜んでよいのか、嘆いたほうがよいのかわからない。

第2章2-3へ続きます。

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