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お粥やの物語 第1章2-3 「常連客の神河さんは見るからに短気です」

入口の引戸が盛大な音を響かせて開いた。
その音は、商店街の抽選会で回るガラガラのように威勢がいい。
現れたのは一等の金の玉ではなく、二等の銀玉でもなく、真っ赤な顔をした老人だった。

男は顔中の皺を、これでもかと深くして、神山を睨んでいる。
「なにを呑気なことを言っているんだ。どうして、そいつを追い駆けなかったんだよ」

引戸の向こうで、神山の話を聞いていたらしい。
神山は気分を害した様子もなく、男に笑みを向けている。

男は真っ直ぐに店の奥に入って来ると、神山の右隣の椅子にドスンと腰を落とした。勢いよく座った割に、椅子の脚は悲鳴の一つも上げない。

「そんなにプリプリしていたら幸せが逃げてしまいますよ」
のんびりとした神山の口調に、男は盛大に舌打ちをした。

禿げ上がった頭の天辺まで赤くした男は、神河裕一郎、神山と同じく、お粥やの常連客で、戸を開ける音で名前を当てられる一人だ。
呼び名は「河さん」。
神山と同じ歳だが、頬はふっくらとしていて手足の肉付きも悪くない。

神山と神河は、苗字の頭文字の「神」を取って、「山」と「河」で呼び合う。二人が一緒にいるときは、「山さん、河さん」ではなく、二人まとめて「神さんたち」と心の内で呟く。

二人は幼馴染で、この店に顔を出したときから、そんな呼び方をしている。
言い争いを始めると、神河は神山を「姥捨て山」や「ゴミ山」と怒鳴り散らし、その度に、神山は「ドブ河」だの「メコン河」だのと静かに言い返す。

「この足では、追いつけませんよ」神山がゆるゆると首を振った。
「そんなことはないだろう。山さんは気合が足りないんだ」

温いお茶をなみなみと満たした湯呑を神河の前に静かに置いた。
湯呑にお茶は七割程度と決めているが、神河の場合は例外で、溢れるほどに入れないと文句を言う。

「最近はこれぞという逸材が見つからない……。逃がした魚は大きいぞ」
吐き捨てるように言うと、神河は湯呑を手に取り、三分の一ほどお茶を啜ってから湯呑を戻した。

「どうにかして、その男を捕まえられないか」
「手は打ってはありますよ」
「手って、あれかい?」
「そう、おまじないを掛けました」
「でも、その後はどうするんだ。逃げられたら元も子もないじゃないか」
「あの子に頼んであります」
「あんな怠け者が役に立つのか」

神山は茶色い鞄から一冊のノートを取り出し、カウンターの上に置いた。
「すべては計画通りに……」
隣からノートの覗き込む神河の顔には、怒っているような、泣き笑いしているような、何とも複雑な表情が浮かんでいる。

「人生には色々なことがあります。もちろん、奇跡も起きます」
「そうだな。その奇跡に対して、その男が何を考え、どう行動するかだ」
「大丈夫ですよ。私の目に狂いはありませんから」
「そんなことを言って、前の奴なんか、三日もしないうちに逃げ出したじゃないか」
「あれは、河さんが脅かしたからですよ」
「俺はそんなことをした覚えはない。励ましただけだ」
「私にはそうは見えませんでしたが」
「あまりの不甲斐なさに、少し苛立ったのは事実だが……」

神河は眉根をキュッと持ち上げながら湯呑に口を付け、ゴクリと音を出してお茶を飲んだ。
カウンターに湯呑を戻す様子は神山と似ているが、響く音は硬質だ。

角が丸くなり、使い込まれたノートの表紙には、達筆な太い文字でこう記してあった。

「人生みな幸せ計画」

第1章3-1へ続きます。


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