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【連載小説】 オレンジロード15

頭が冴えて眠気は訪れない。
天井を見つめながら、夜が明けるのを待った。
カーテンの隙間から朝陽が射し込むと、視界は黒色から灰色へと変わり始め、天井の隅に滲んだ茶色い染みの形がはっきりと見えたときには、窓の向こうからスズメの囀りが聞こえていた。
チュンチュンという澄んだ鳴き声が鼓膜を優しく震わせる。

その音を聞きながら、僕は瞼を閉じた。
脳裏に、紫色を帯びた青い欠片で敷き詰められた道が浮かび、その上を橙色の自転車が走っている。
青紫の小さな塊は、お洒落なデザート皿の欠片だ。
その上に苺のショートケーキが載っていたのを覚えている。

四月中旬の夜のことだ。
悲しそうな鳴き声がして、窓から見下ろすと、片山家で飼われているパグという犬種の「ポンちゃん」が、丸い黒目で僕の部屋の窓を見上げていた。
怪我でもしたのかと思い、急いで玄関から外へ出ると、ポンちゃんは顔見知りの僕に擦り寄って来た。
嬉しそうに尻尾を振る様子からして、病気でも怪我でもなさそうだった。

「どうしたんだ?」
僕が訊いても、ポンちゃんが答えるはずもなく、ペロペロと僕の手を舐めるだけだった。
家出の理由はわからないが、このままにしておくわけにはいかない。
きっと、片山家の人たちは心配しているはずだ。
そう思い、僕はたぷたぷした小さな体を抱きかかえ片山家へ向かった。

ポンちゃんの姿を見ると、片山さんと奥さんは、大喜びした。
ポンちゃんも、大きな黒い目で二人の姿を見つめ、小さな舌をせわしなく動かしていた。
結局、ポンちゃんの家出の理由はわからなかったが、終わり良ければすべてよし、ということで、僕は家に戻ることにした。

背中を向けた僕に向かって、片山さんが「美味しいケーキがあるんだ」とお茶に誘った。
さしてケーキに興味があったわけではないが、ポンちゃんが嬉しそうに吠えるものだから帰るタイミングを失い、気が付いたときには片山家に足を踏み入れていた。

モデルルームのように整然と並ぶ家具はどれも高級そうで、僕の家の安物とは雲泥の差があった。
僕の前にあるダイニングテーブルも、座っている椅子も、高級家具のショウルームに置いてあるような代物だ。
とは言っても、実際に見たことはなく、新聞のチラシで目にしたくらいだが。

そんなことを考えていると、ご主人が紅茶を淹れ、ケーキを運んで来た。
優雅な身のこなしで、片山さんはテーブルの上にケーキが載った皿と紅茶が入った白いカップを置き、僕の向かいの席に腰を下ろした。
奥さんはポンちゃんと一緒に姿を消したまま戻って来ない。

火事を手伝わない、うちの父とは大違いだった。
そんな光景を目にしたら、さぞかし母は羨ましがることだろう。

ケーキを食べ終わった後には、白い生クリームがベタリと付いた青色が現われた。
それは紫がかった青で、光沢を帯びた小さな粒が散りばめてあった。
例えるなら、青い空を反射した、遠浅の海の色と言った感じだ。
もちろん、東京湾ではなく、南国の透き通った海だ。
皿の周囲には、金色の線で魚や波が描いてあり、それが海色のキャンバスと交じり合い、一つの世界を浮かび上がらせていた。

「いい色でしょ」片山さんが自慢するように声を弾ませた。
僕は大きく頷き返した。
「結婚する前、家内と二人でフランス料理を食べに行ったことがあるんだ。そのときデザートのアイスが載っていた皿がとても素敵でね」

片山さんは、子供のような無邪気な笑みを浮かべたまま話を続けた。
「二人のことを祝福していると感じたんだ。だから、結婚してから、たまたま似た皿を見つけたときは大喜びして、すぐに買ったんだ」
そこで言葉を切り、片山さんは声を押し出すようにして言った。
「でも、家内は覚えていないみたいだ……」

男は歳を取ると、ロマンチックな秘密を持つらしい。
父が塗った橙色の自転車もそうだ。

「何を話しているの?」
気が付くと、奥さんが後ろに立っていた。
いつ、部屋に入って来たのか、まったく気付かなかった。

二人の話に興味を持ったのか、奥さんは片山さんの隣に座り、二人の顔を交互に見比べた。
「何でもなにいよ」片山さんは、口止めするように、僕に目配せした。
僕は高速の瞬き二つで、了解の合図を送った。

「主人たら、この皿を自分で洗って磨くのよ。私に触らせようともしない。皿のほうが大切みたいなんだから」
奥さんが軽く睨んでも、片山さんは笑っているだけで答えない。

健太が持っていた青色の欠片の正体は、片山家にあった皿の一部だ。
その欠片をゴミ袋に詰め、こっそりと置いたのは、片山さんのはずがない。
残ったのは奥さんになる……。
海色の皿の破片が、ゴミ袋に詰められて捨てられていたのは火曜日の夜。
不燃ゴミの回収は水曜日の朝。
どうして、奥さんは水曜日の朝まで待てなかったのだろう……。

僕は瞼を開け、上体を起こして、ベッドの上で胡坐をかいた。
薄いカーテンを擦り抜けて、朝の陽射しが満ちると、部屋の中にあった物は灰色からカラフルな色に変わった。
壁に貼ってあるポスター中で、銀色の旅客機が青い空を飛んでいる。
そり隣にある、小麦色の肌をしたアイドルの女の子は、少し寂しそうに僕を見つめていた。

フローリングの床に足をつけると、冬の気配を感じさせる冷たさが、素足を通って心臓を震わせた。
目覚し時計の針は午前六時五十分を指している。

学生服に着替えてから、静かに窓を開けた。
冷たい朝の空気が頬を撫でる。
僕は用意しておいた運動靴を履き、窓から外へ出ると、忍び足で屋根の上を進んだ。

この時間、家の前で待ち伏せすれば、片山さんに会えるはずだ。
自動販売機の横で立ち止まり、片山家の玄関を見た。
心臓の鼓動が速くなっていく。
汗が滲んだ掌を、僕は硬く握り締めた。

オレンジロード16へ続きます。


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