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【連載小説】 オレンジロード12

母は台所で、夕飯の支度をしていた。
その丸い背中に近づき、僕は声をかけた。
「母さん、僕の自転車の鍵の番号を知っていたよね?」
母は包丁を持つ手を休め、やや疲れ気味の表情に笑みを浮かべた。
「忘れろといっても、忘れられないわよ」

鍵の番号は「二三一六」だ。
その番号になったのは偶然でしかなく、買ったときからその番号だった。
記憶法の一つにゴロ合わせがある。
社会の年表なんかでよく使うやつだ。大学進学を希望している僕も、ゴロ合わせにはお世話になっている。だから鍵の番号にもゴロを作った。

そのゴロが悪かったのか、それとも、母さんに話してしまったことがまずかったのか……。
「二三一六」のゴロは、「ふみちゃん、いろっぽいね」だった。
母の名前は「文子」という。
そのゴロを話すと、母は大喜びではしゃぎ、その隣で、父は大量のゴーヤを頬張ったような顔で苦笑した。
父のその笑みはいつまでも続き、母の表情が次第に曇り出したのは苦い思い出でしかない。

もし、それが理由で離婚することにでもなったら責任は僕にある。後悔してもしきれない。どうしよう、と真剣に悩んでいる僕をよそに、気がつけば、二人は仲良く、テレビのドラマを観ていた。
ほっと胸を撫で下ろしながらも、男女の関係はわからない、と首を傾げながら、僕は自分の部屋に向かったのだ。

「母さん、その番号を誰かに話さなかった?」
母の顔からすっと笑みが消え、忙しくなく唇が動いた。
「まさか、その中に自転車を盗んだ犯人がいるの……」
その動揺した様子からして、鍵の番号を誰かに話したらしい。
無邪気にゴロを自慢する母さんの顔が脳裏に浮かぶ。

「まだ、わからないけれど、やっぱり、自転車には鍵が掛けてあったんだ。健太が覚えていたんだよ。そうなると、短時間で鍵を外せたのは、番号を知っていた人間になる」
母は記憶の底を浚うように視線を宙に漂わせながら口を動かした。
「だいぶ前のことだけど、三人に話したわ」
「誰なの?」
「安西さんと片山さん、それに小早川さんの奥さん」

母のおしゃべりが三人で済んだのは不幸中の幸いだった。
その三人の中に犯人がいる。
そして、犯人の狙いは僕なのかもしれない。

安西家は向かって右隣の家だ。老夫婦二人で慎ましく年金生活をしている。
二人とも背は低いから、僕の二十六インチの自転車に跨ることは難しい。それに、穏やかに余生を過ごす二人に恨まれる覚えはない。

安西家から三軒先にある片山家も夫婦での二人暮らし。二人とも三十を過ぎたくらいだ。
奥さんは僕と同じくらいの身長で、ご主人は僕よりも背が高い。
二人とも、余裕で僕の自転車に乗れるはずだ。

母からの情報によれば、ご主人は、時間に几帳面な人で、朝出かける時間も、帰宅時間も毎日ほとんど同じらしい。
帰りはいつも八時過ぎという話だから、昨夜の犯行時刻には、まだ家に戻っていない可能性が高い。

奥さんも働いているが、いつもスカートを穿いている。
僕の自転車は、曲がりなりにもサイクリング車だから、スカートで乗るのは難しい。
それに、二人から恨まれる覚えがないのは安西家と同じだ。

残ったのは小早川家になる。あいつしかいない……。
頭の中に、色黒でバレーボールの選手のように背が高い、僕と同じ歳の少年の顔が浮かんだ。
朝の不敵な笑みは、ママチャリに対してではなく、僕を陥れたことに対して、心の中でほくそ笑んでいたせいかもしれない。

母が不安そうな顔で見つめているのに気付き、僕は取り繕うように言った。
「そうなんだ……。僕も何人かにしゃべったから、その三人の中に犯人がいるとは限らないよ」

強引に話題を夕食の献立に代え、頃合いを見計らって部屋に戻った。
母は疑惑の眼差しを向けていたが、僕が階段を上り始めると、包丁の小気味いい音が台所から響いてきた。

部屋の中に、健太の姿はなかった。
自室に戻り、ご自慢のコレクションでも眺めているのだろう。
一階の様子に聞き耳を立てながら、押入れの奥から運動靴を取り出した。
音を立てないように窓から外へ出て、屋根伝いに進む。
駐車スペースの横にある柿の木に手をかけてから塀に足を載せると、一気に地面へ飛び降りた。

夕飯の支度が終わるまで、母は呼びに来ない。
それまでに決着をつけなければならない。
僕は斜め向かいの小早川家に向かって足を動かした。

オレンジロード13へ続きます。

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