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詩学探偵フロマージュ、事件以外 2日目:依頼人を探せと依頼人は言った(後編)

 私は言われたとおりカメラを構え、
 電話機を映した。
 何の変哲もない電話機の写真が撮れただけだ。
「写真には、依頼人の姿は映っていない。なぜだ?」
 ケムリさんは当たり前のことを問う。
「話者は、電話の向こう側にいますからね……」
「『向こう側』とはどこだ?」
「それは……発信者のいる場所ですよね?」
「だからそれはどこだ?」
「わかるわけないじゃないですか」
「素晴らしい」
 突如、ケムリさんは拍手をする。
 戸惑いつつケムリさんのほっそりした指先を見る。
 電話機なんかよりこっちを撮りたかった。
 しかもちょうどエモい光が入っている。
「『わかるわけないじゃないですか』が答えだ。
 依頼人の名は『わかるわけないじゃないですか』。
 だから君はいまこの場に依頼人が現れたら、
 こう呼びかけるといい。
 『わかるわけないじゃないですか、
 こちらにお座りなさい』と。
 すると、依頼人は何と答えると思う?」
「……知りませんよ……」
「馬鹿だな。
 『いきなり呼び捨て?』って驚くに決まっている」
「……ええと、何の話をしているんでしたっけ?」
「でも初対面の相手を呼び捨てにしても、
『そういう塩対応なんですね、ここは』と
 相手は喜ぶかも知れない」
「喜ばれても困りますが……」
「依頼人が
『さっきはヘンな電話してすみません』と謝る。
 すると君は答える。
『全くです、わかるわけないじゃないですか!』」
「え、ケムリさん、この話、どこに向かいますか?」
 私は一体、何を聞かされているやら……。
「わからないのか? 
 いま君が依頼人のキャラクターを創り上げたんだ。
 アリストテレスの弁論術でいうところのエートス。
 日本語で言うなら〈特性〉といったところだが、
この特性はあらゆる事象の〈出発点〉でもある。
さて、エートスには三つのカテゴリーが存在する」
「ちょっと……何の話を……」
 こちらが割って入ろうにも、もう止まらない。
「技能と知に関するフロネシス、
 徳に関するアレテー、
 聞き手への好意を示すエウノイア。
 この分類ができるのは、話者ではなく聞き手……。
 すなわち──君だけなんだよ。
 そこで君にもう一度問う。
『わかるわけないじゃないですか』さんは何者か」
 私の中には、一眼レフを向けたときの、
 無口な電話機の映像が浮かんでいた。
 埃っぽい室内で、その電話機はじつに、
 寡黙な紳士のごとく遠くを見ていた。
「なるほど……〈井上に好かれて困っている〉は、
〈イノウエ〉すなわち、〈エウノイア〉のこと。
 〈風呂に入って荒れたい〉は、
 フロシネスを習得してアレテー…得も得たい、と。
 つまり、この依頼人は聞き手に好かれて、
 その狭間にあって知や技術、徳を得たいと……」
「合格だ。ビアン、ビアン」
 これは後に知ったことだが、
 ケムリさんは煙に巻きたい時にフランス語を使う。
 それから、上機嫌でケムリさんはカマンベールチーズに
 手を伸ばした。
 ナイフで切り分けると、チーズはねっとりと伸びた。
 まるで、ケムリさんの混沌とした話法のように、
 どこまでも伸びてゆく。
 ケムリさんはそのままナイフにとってチーズを口に運ぶ。
「うーむ、セ・ボン。
 さて、これでこの依頼は片付いた」
「え、まだ途中なんですが……」
「もういい、と言っている」
 ケムリさんは強引な態度でそう言い切ると、
 壁の時計に目をやった。
「午前中にこの課題をやっつけるとはね。
 では午後は例の頭韻事件が転がっていないか、
 外回りに行ってきたまえ」
「そんな、まだ電話の件は何も片付いては……」
 ずいぶんと一方的な幕引きではないか。
「いいから行け」
 仕方ない。あっちは雇い主。これ以上は逆らえない。
「頭韻事件が見つからなかったら……?」
「直帰しなさい」
 それで話はおしまいだった。
 ケムリさんはもうカマンベールチーズを
 食べるのに夢中になっていて、
 私の存在など忘れているようだった。

 私は言われるままに外へ出た。
 コンビニでサンドイッチと牛乳プリンを買った。
 食べながら、考えた。
 なぜケムリさんは最後まで言わせなかったのか?
〈エウノイア〉とは聞き手に対する好意を示す。
 つまり、〈聞き手〉とは、私のことだ。
 ──この分類ができるのは、話者ではなく聞き手……。
 すなわち──君だけなんだよ。
 ケムリさんもそう言っていた。
 そして話者はたしかに言ったのだ。
〈井上に好かれて困っている〉と。
〈エウノイアに好かれて困っている〉。
〈私に好かれて困っている〉と読み替えられる。
 困惑にもいろいろな種類があろう。
 イヤで仕方のない困惑もあれば、
 自身の内面にあるべつの感情との戦いゆえの困惑。
 いやもっといろいろな困惑があるはずだ。
 たとえばそれは〈フロシネス〉や〈アレテー〉に関わるかも知れない。
 そういえば、依頼人はこちらの話をまったく聞こうとしなかった。まるであらかじめ録音された音声みたいに。しかも、だいぶ機械的な音声だった。
 あれは……ケムリさんが仕込んだものでは?
 ケムリさんが目覚めるタイミングも絶妙すぎた。
 すなわち依頼人はケムリさん。
 聞き手である私は、
 そのように依頼人のエートスを割り出した。
 ケムリさんの意図はどこにあるのだろうか?
 もしかして彼は、歓迎会の時の一夜について、
 本当は覚えていることを告げようとしたのでは?
 けれど一方で無茶な出題とも思っていた。
 なのに思いがけず私が簡単に正解に辿り着いたので
 話を途中で強制終了させたのじゃないだろうか?
 だとすると、その内面は、
 私からの好意で上司と部下という関係が崩れそうで
 困っている、とか……。
「いやいや……ちょっと我ながら図々しい推理……」
 牛乳プリンを食べながら私は自戒する。
 そのように自戒することで、
 私もまたあの日との間に距離を置こうとしている。
 こういう葛藤を繰り返している時、
 私の内側にも〈エートス〉が創り出されている、と
  言えるのかも知れない。
 歩き出した午後の空気はどこまでも澄んでいる。
 考えてみれば、もう十二月か……。
 そして、年の瀬なのに、私はといえば社会人としても、
 恋愛面でも、まったくもって〈出発点〉にいる。
「やれやれ。エートスだわ、エートス……」
 一人呟きつつ食べ終えた容器をプラゴミの箱に捨てた。
 それから営業を開始した。
 もちろんその日、私は直帰することになった。
 いまのところ、〈フロマージュ探偵事務所〉に依頼らしい依頼はまったく来そうな気配がない。


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