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詩学探偵フロマージュ、事件以外 シミュレーションしてみよう

「シミュレーションをしてみよう」
 ある日の午後、ケムリさんは唐突にそう言った。
 いつものようにカマンベールチーズを口に運び、
 一口食べてはフォークを天に向けて満足気に頷く。
 今日のケムリさんはなぜかいつもより三割増しお洒落だ。
 グレイのスーツに蝶ネクタイまでして、
 今直ぐにでも社交デビューできそうな恰好だが、
 たぶん意味は大してないのだろう。
「シミュレーション、とは?」
「依頼がいつ来てもいいように、
 練習をしておくのだ」
「……なるほど」
 練習と言ってもここには二人しかない。
 何をどうやるつもりなのか。
「ちょっと依頼人役をお願いしよう。入って来て」
 やっぱりそうきたか。
 まあそれ以外にやりようがない。
「はい……」
 私はノックするふりをする。
 ノック、ノック。
「失礼します」
 存在しないドアを開ける。
「どうぞ。ご依頼ですね?」
「ええ、そうなんです。じつは……」
 ところが、アドリブで話そうとするのを、
 ケムリさんは手で制す。
「言わずともわかります。
 人には見えないドアが見えてしまう病気ですね?」
「違います、いまのはパントマイムで……」
「病院でしたら、
 そこを出て角を右に曲がったところにありますから」
 ケムリさんはお話は終わりとばかりにチーズを食べる。
 これじゃシミュレーションになりゃしない。
 しかし私も馴れたもの。これくらいの脱線は想定内だ。
「そんな話じゃないです。
 猫を探してほしいんです」
「猫を?」
「二日前にいなくなった猫です」
「猫に会ってどうする気ですか?
 気持ちを確かめたいんですか?
 ご同情しますが、まさか、お客さん、
 ストーカーじゃないですよね?」
「あの……恋人探しじゃないので、
 そういうくだりは省略していただけますか?」
「猫はチーズが好きでしたか?」
「いえ、チーズはとくに……」
「試したことがないんじゃないですか?」
「まあ……ないですけど」
「たぶんいなくなったのはそのせいですね」
「違いますよ……っていうかケムリさん、
 これじゃあ依頼人がせっかく現れても逃げますよ」
 〈顧客のチーズにこたえる〉というのは
 だいたいこういうことじゃないはずだ。
「私がお手本を示しますから、
 ケムリさんが依頼人をやってください」
「君、助手なのに?」
「いいからやってください」
 ケムリさんはイヤそうに溜息をついた。
「こんにちは、依頼をお願いします」
「どのような依頼でしょうか?」
「チーズが消えました」
 はなからやる気がなさそうに言う。
 だが、私もこんなことではめげない。
「いまお手元にお持ちのそれは違うのですか?」
「あ、こんなところに。ありがとうございます。
 はい、五十万円」
「そんな簡単な依頼あるわけないでしょう。
 これじゃ何の練習にもなりませんよ」
「どんな依頼ならシミュレーションになると言うんだ?」
「そうですね……『妻の動向を探ってくれ』とか」
「妻の動向を探ってくれ」
「奥様に何か問題が?」
「話しかけても返事をしないんだ。
 料理も作ってくれないし、
 洗濯もしない。
 おまけに、存在すらしていないんだ」
「存在してなきゃ動向を探れませんよ」
「はい、君は探偵失格だな」
「え、なぜですか?」
「なぜか? 妻は存在しないかも知れない。
 だが、『妻を探している男』はそこにいる。
 これは確固たる事実だ。
 いいかね? ひとが詩を、一語一語から
 純粋に読み取ってイメージを広げるように、
 我々は依頼人の依頼からすべてを始めるべきだ。
 『存在しない妻を探す男』は存在している。
 ならば、〈妻〉を探すのだ。
 まず〈妻〉の特徴を聞き出したまえ」
 なるほど。私としたことが、
 ここが詩学に特化した探偵事務所だということを
 失念していた。
「……奥様の特徴は……?」
「そうだな。髪は短め。黒。
 スタイルがよく、指がほっそりしている」
 それらの特徴は、私に当てはまっていた。
 スタイルだけは昔から褒められるし、
 髪は黒く、短めだ。
「それはもしかして私かもしれません」
「もしや、君が……?」
「いやいや、そんな馬鹿な……」
「会いたかったよ、マイワイフ!」
 ケムリさんは突如私に抱きついた。
「ど、どこの国のひとですか」
「依頼は解決だ。さあ、五十万」
 ケムリさんはいったん離れて
 支払う真似をしてから私の手をとる。
「さあ、ワイフ、お家へ帰ろう」
「え、あの、まだ続けるんですか?」
 ケムリさんに手を引かれるままに、
 私たちは事務所を後にした。
 私は戸惑いながらも、
 胸の高揚を抑えられずにいた。
 結局、ケムリさんは夕方近くまでえんえんと
 〈シミュレーション〉を続けた。
 私はつかの間、ケムリさんの〈ワイフ〉としての
 生活を味わい、デパートでのデートや
 映画館での鑑賞などに付き合わされ、
 そこそこ疲れ果てた。そこで、思いついて
「シミュレーション終わり」と言ってみた。
 それでようやく私は〈妻〉から解放された。
 疲れているのは私だけでなく
 ケムリさんも同じだった。
「もう、君がシミュレーションやめないから、
 とんでもない目に遭った……つかれた……」
「わ、私のせいですか……」
「今日は、これにて就業終わり。
 帰ってよろしい。あー災難災難……」
「……」
 その場で解散となった。
 私は事務所へと引き返すケムリさんの背中を
 目で追い続けていた。
 小さく、小さく、小さくなるまで
 ケムリさんの背中を見送ってから、
 地下鉄の階段を降り始める。
 それから思った。
 もしかして、今日の〈デート〉は
 あらかじめケムリさんが計画したものだったのではないか。そうだったらいいなぁ、と。
 そう言えば、今日はいつもよりお洒落だった。
 とにもかくにも、ひとつだけ確かなことがある。
 このシミュレーションから察するに、
 このままでは事務所はあと一年もせずに
 廃業してしまうということだ。
「私がなんとかしなくちゃ……」
 私は、明日から営業に真剣に取り組むことを
 心ひそかに誓ったのだった。

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