詩学探偵フロマージュ、事件以外 1日目:モルグ街虫食い事件(後編)
「……ええと、あ、わかりました。
『黄金虫』ですね?
〈mor〉を含む単語なら、ほかにもあるわけです。
それをあえて〈mordorer〉に変えたとなれば、
もう間違いありません」
「安易だな。だが、正解だ」
「正解なら安易なのはケムリさんでは?」
「では褒美を授けよう」
「聞いてませんよね?」
「明日も正社員でよし」
「当然では……」
「それと……本日は定時退社だ」
「それも当たり前です。依頼もないですし」
「今のがただのクイズだと思ったら大間違いだよ。
アリストテレスの『詩学』に基づいた
〈事件〉だったのだ。
あの時代の詩とはすなわち韻文のこと。
俺の話した事件はどうかね?
すべて〈mor〉という頭韻で構成されている。
むろん、頭韻を用いたのは、
俺の〈頭〉で考えたことだからという洒落だ。
それと、安易な君でも思いつかなかったことが一つ」
「あの、ですから安易だったのは、
発想したケムリさんで……」
「噛みつくという意味のフランス語〈mordre〉が、
この事件を支配しているということだ。
すなわち、黄金虫が
『モルグ街にかじりつく』〈mordre morgue〉
というわけだ。
ちなみにこの頭韻は、
ポオの正典『モルグ街の殺人』にも
隠されていると考えるのは俺だけだろうかな」
「ふむ……って知りませんってば!」
「いいかね? 頭の中で考えたことは、
現実に起こり得る。
一週間以内に、こういう事件を探してきたまえ」
「こういう事件……って?」
「つまりは、頭韻を用いた事件だね」
「無茶な……っていうか、
これ営業とってこいって話では……?」
「本日の任務は終わりとする」
「ごまかさないでください!」
「良きに計らえ」
ケムリさんは、またおもむろに
カマンベールチーズに手を伸ばす。
だが、やはりケムリさんの身体は、
チーズを受け付けないようだ。
「呪わしい……せっかく飲んだ
〈カポーティ・イン・コールド・ブラッド〉
の味を覚えていないとはね」
「まったくですね」
そこだけは心から同じ感想を持っていたので、
深く頷けた。
とにもかくにも、こうして入社二日目、
助手としての実質勤務一日目が終わった。
夜、帰宅して風呂に入り、
蒸気でホットアイマスクなどをつけて
虚脱感に満ちた身体を癒していると、
実花から電話がかかってきた。
一度表示を確認してから通話ボタンを押す。
それからまたアイマスクをつけた。
「どう? いい職場でしょ? 暇だし」
実花の声は穏やかだ。
学生時代の彼女の雰囲気に近い。
仕事を辞めると人は本来の性質を取り戻すのか。
「まあ、暇は暇ね」
今日なんか一回も電話が鳴らなかった。
探偵事務所として成立しているのか、
怪しいところではある。
「でも、わけのわからない営業に行かされる」
「あんなのテキトーでいいのよ。
外行ってきまーすって言ってスマホでゲームやって、
見つかりませんでしたーって言えばいいんだから」
実花の心臓は思いのほか強いようだが、
私は真似できまい。
「ところで実花、ケムリさんって……
手が早いほう?」
「手? 手って何?
ピアノでも弾かせようっていうの?」
「……何でもない」
どうして私の周りにはこんな人ばかりなんだろう。
「お酒、弱いほう?」
「いや、強いんじゃない?
何度か一緒に呑んだことあるけど、
潰れるのは見たことないわね。どうかしたの?」
「ん、いや、いいのいいの。
いい職場紹介してくれてありがと」
いそいそと電話を切ってから、私は考えた。
どうしたものか。
ケムリさんは昨夜のことを覚えていないらしいし、
前任者の実花はまったく問題を感じなかったようだ。
しかし……私ははっきり記憶があるのだ。
昨夜、〈カポーティ・イン・コールド・ブラッド〉を飲んだ後、
私とケムリさんはあの事務所で一夜を共にしたのだ。
明け方、酔いに浮かれて仕出かした事態に戸惑いつつ、
まだ眠っているケムリさんに毛布をかけて
事務所を飛び出したのだった。
まだ身体にはケムリさんの甘い吐息や指の感触が残っている。
思い返すと、それこそ、
虫食いでmoralのalがalcoleで消えてしまったみたいな
妙に落ち着かない気持ちになる。
「虫食いで残された〈mor〉ですか……
ケムリさん、じつは記憶あってわざと
あんな謎かけしたとかじゃ……ないですよね……」
私はベッドに横たわり、そんな独り言をつぶやいた。
やがて、そんな私の夢想を、ホットアイマスクが、
静かに溶かしていったのだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?