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詩学探偵フロマージュ、事件以外 1日目:モルグ街虫食い事件(前編)

「行間で読ませるのが詩、行間を読むのが探偵。
すなわち、探偵の詩学というのは成り立ちうる」
 土堀ケムリさんは本を逆さに読んでいる。
 読んだふりではない。
 読んでいるのだ。
 これも探偵に必要な技術なのだとか。
 カーテンから光が差し込んで、
 そんなケムリさんの顔を右側から照らす。
 ケムリさんは色素が薄いから、
 光を浴びると白よりも白く蛍光色になる。
 やはり色素の薄い髪は、
 陽光に染められ黄金色の輝きを放っていた。
 私はその光を壜に詰めて自宅へ持って帰りたかった。
 この事務所はいま、何ともエモい光に満ちている。
 思わず、カメラを構えると、ケムリさんに睨まれた。
「はいそこ、カメラを構えない」
「うっ……バレましたか」
「クビにしようか?」
「困ります。まだ二日目ですから」
 ケムリさんは今年で30ちょうど。
 なのに、優雅に足を組んでサンダルを足先でぶらぶらさせる仕草は、何とも少年じみている。
「ところで、ケムリさん、昨日のことを覚えていますか? 昨日の、歓迎会のこと」
 昨夜、ケムリさんは私の入社を祝って、
 歓迎会をしてくれたのだ。
「忘れたね」
 私は内心で溜息をついた。
「そうですか」
「何があった?」
「いえ、何も」
「何もなければ、尋ねるはずがない」
「何もありませんでしたってば」
「神保町の珍妙なバーに行ったことは覚えてるよ。
 店内が暗かったこと、
 オーナーらしきマダムが途中から我々の席に
 割り込んできてとうとうと語り始めたこと。
 お酒が美味しかったことも」
「幻の酒、〈カポーティ・イン・コールド・ブラッド〉が出てきたことは?」
「何だって? まさか……あの酒が?」
 開始ニ十分後からすでに記憶がなかったようだ。
 頭痛がしてきた。
 ケムリさんは〈カポーティ・イン・コールド・ブラッド〉の味わいに舌鼓を打つと、上機嫌で私の横顔の美しさを誉めそやした。
「尾行に向いている」とか、
「レンブラントの絵の中まで囮捜査に入れそうだ」とか、
「君こそフローラ」とか……。
 それらのよくわからない麗句を聞くうちに、私は私で何だかほろ酔いになってしまった。
「えっと、じゃあ、その後のことはもちろん……」
「覚えていないね。気が付いたらこの部屋のソファで眠っていた」
「服は着てましたか?」
「君ね、そういうことを聞くのはセクハラだよ? いくら上司に対してでも聞いちゃいけないことというのはある。第一ね、エレガントじゃないよ」
「……失礼しました」
 ケムリさんは本をデスクにバンと音を立てて置いた。
 叩きつけたのか置いたのか、微妙なライン。
 だが、そこまで怒らせる質問だったとも思えず判断を保留していると、ケムリさんはデスクの脇に出しっぱなしにいてあるカマンベールチーズをナイフでとろりとカットして小皿に載せた。
 どこでもかしこでもチーズを食するところから、彼は〈探偵フロマージュ〉と呼ばれているらしい。
 らしい、というのは、大学同期でここの元助手だった浅瀬実花から紹介を受けた時にそう聞いただけの話なのだ。
「……ダメだ、まったく食べる気にならない」
「じゃあなんで切り分けたんですか?」
「イケる気がしたんだ……でもダメだった。
 そんなのよくあるだろ?
 ツルゲーネフの詩とかさ。
 学生時代、周囲の連中におまえはツルゲーネフの詩は絶対好物だから食べるがよろしいと言われたわけだ。
 ところがいざ口にしてみると、何とも口に合わない。
 ツルゲーネフが悪いとか俺が悪いとか、そういうことじゃないんだ。こればっかりはイケるかイケないか。
 酒の相性みたいなところが……
 ウッ……酒というワードは今日はダメだ。
 気持ち悪くなる。
 今日一日君にはあらゆる酒の話を禁止とする。
 もちろん昨夜の話もなしで」
「……はい」
 私は昨夜の話をする機会を奪われてしまった。
「それより君、入社二日目にして大事件が舞い込んだ」
 入社と言ったって、実花から突然電話で「正社員って憧れない?」と連絡をもらい、ちょうどパソコンの入力バイトの低収入にうんざりしていた頃合いだったために「憧れる憧れる」と連呼したらあれよあれよと面接日が決まり(それがつまりは昨日である)、行ってみたらなぜだか歓迎会に連れて行かれてしまっただけの話だ。
 私はこの探偵事務所の仕事内容もろくに知らない。
 実花の退職理由は結婚だった。 
 ──キツい仕事だから、独身のあなたのほうが向いてると思う。
 何となく失礼な物言いだな、とは思ったが、席を譲ってもらえるならこの際何でもいい。
 私の夢は、絵でも写真でも立体アートでも何でもいいから個展を開くこと。そのための費用が手っ取り早く溜まるなら本当に何だってよかったのだ。正社員なら突然解雇される心配もないだろうし、くらいの、甘い気持ちだったのだが……。
「どんな事件でしょうか?」
「モルグ街で虫喰い事件があったようだ」
「もるぐがい……ですか? 東京、の、外でしょうか? 外国?」
「そんなつまらない質問はどうでもいいよ。どこであれ、そこに行けばいいんだから」
「場所がわからないと、そこに行けないのでは?」
「で、事件の内容なんだが……」
「話聞いてますか?」
「江口さんの自宅が約半分ほど虫に食われたのだそうだ」
「虫にですか? 白アリですか?」
「すぐに白アリとかそういう非現実的な可能性を口にするものじゃない。それくらいなら、まだムハメド・アリに破壊されたというほうが現実的だ」
「そうでしょうか? アリはもう亡くなられてますし、白アリのほうが可能性的には……」
「可能性的には、アリ。そう言おうとしたのかね?」
「言おうとしてませんけれど」
「君には職務中だっていう自覚が足りないね。
 だいたい僕は蟻の話なんか1ミリもしていない。
 虫食い事件としか言ってないのに。
  可能性的にはアリ、だなんて
 ダジャレにもなっていない。
 恥を知りたまえ」
「いやいや……」
 この話、どこへ連れて行かれるのやら。
 私は途方に暮れつつ、それ以上の返答は下手を打つだけだと思って黙っていることにした。
「モルグ街の江口邸で虫食い事件。
 被害は甚大なもので家はまるごと半分が消滅した。
 それと大いなる被害がカーペット。
 このカーペットは黒褐色の比較的地味なものだった。
 それが、虫食い事件のあとでは
 金褐色に変わってしまったのだそうだ」
「黒褐色から金褐色に……?」
「そういうことだ」
「それで依頼人の江口さんは困っている……と?」
「いや、江口さんは困っていない。喜んでいる。
 が、江口邸はモルグ街の町政を支える資産家だから、
 もはや江口邸なくしてモルグ街は成り立たない」
「つまり依頼人は町長ですね?」
「君にはどうしてこんな簡単なことがわからないのかな……町長なんかいないよ。
 なぜならモルグ街なんて存在していないからね。
 エドガー・アラン・ポオの本の中にしか存在しない。
 不勉強にもほどがあるね」
「いや、私だってそれくらいは……」
「知っていたのに、町長が依頼人とか言ったのか? 
 愚かしいな、まったく」
「ええと……出鱈目の話をしたということですか?」
「違うね。
 いま話したのは、現実に起こったことだ。
 僕の頭の中で。
『モルグ街』とは〈morgue〉と書く。
 この街にある〈eguchi〉邸が半分虫に食われた。
 食われたのは〈egu〉の部分。
 江口家の資産がモルグ街を支えているということは、
〈morgue〉の中の〈gue〉が江口家の〈egu〉に
 相当していたということ。
 従ってモルグ街もまた〈mor〉だけが残った。
 カーペットはその結果だね。
 黒褐色の、すなわち〈moricaud〉だったのが、
〈mor〉だけ残ったことで金褐色〈mordorer〉になってしまった。
 さて、犯人は誰か? 
 ヒント、モルグ街はエドガー・アラン・ポオの
 書物のなかにしか存在しない」
「……ええと、この無茶なクイズに正解すると
 何かもらえるんでしょうか?」
「明日も正社員でいられる」
「え、それ当たり前じゃなかったんですか?」
「働かざる者空也上人だよ」
「食うべからずでしょ、空也上人に失礼ですし。
 空也上人の口から出てきている小さい人たちにも
何となく失礼です」
「もう降参かね?」
「何も言ってませんってば……」
私は、このめちゃくちゃなクイズに、答えなければならなくなったのだった。

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