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ちょっと長めの図書紹介⑦

表紙をめくり数ページ開くと
「坂本秀夫」が目に飛び込んできた(p.ⅵ)。

校則研究といえば、
名著『「校則」の研究』(1986年)が浮かぶ。
また、それと合わせて、
個人的に懐かしい同氏の著書を思い出した。
『生徒会の話』(1994年)である。

2006年に中学校へ異動し、
当時から興味関心があった〈子どもの権利〉、
特に〈意見表面権〉の実現に関して
生徒会とのかかわりを楽しみにしていたのだ。
そのとき出会ったのが
「生徒参加の知識と方法」という
副題にひかれた『生徒会の話』であった。
名著エミールではないが、
自分のなかの〈子どもの発見〉に
繋がる出会いでもあった(詳細:栁澤2016)。

さて、坂本秀夫氏の本ではない。
いや、現代版というか、
「坂本秀夫」校則本の継承ともいえるだろう。
8人の研究者が集結し、
校則についてそれぞれの専門分野から
「だれが校則を決めるのか」という視点で
「民主主義と学校」を模索した成果である。
筆頭編著者である内田氏は、
「教育学の観点から、
 校則の過去と現在を検証し、その未来を展望」
──を本書の目的としている(p.ⅷ)。

まず、興味深いのが鈴木雅博氏の第3章──
「教師はどのように校則を『見直さない』のか」
という節で学校のリアルが読める(p.51-60)。
基本的には外部公開されることのない
生徒指導部会(校長の諮問機関的な組織)
における教師たちの議論が読めるのだ。
ピックアップされているのは、
「エナメル素材のバック」をめぐる争いである。
それぞれがそれぞれの正義を主張し、
意見を出し合っている様子がうかがえる。
しかし、
大切なこととして鈴木氏は述べる──
「教師自身が議論の場で
 [子どもの;筆者注]〈権利〉を
 枠組みとしていくことが校則の見直しにとって
 重要な一手となると」いう指摘だ(p.71)。
ぜひ、校内のリアルも感じてほしい。

続く、第4章では末冨氏が
スクールリーダーシップに言及している。
校則の見直しも含めた学校運営の変革
それに取り組むべき担当を管理職と
表現するのではなく
「マネジメント職」という言葉を充てている。
それは、
改訂「生徒指導提要」(文科省)において
生徒指導はPDCAサイクルに基づくことが
強調されているからだそうだ。
この考えによれば、
確かに管理職と限定することなく、
「マネジメント職に一般化されていくべき」
という重要さが理解できる(p.76)。

たとえば、
事務職員も企画運営会議への参画が叫ばれ、
それが実現している学校も多いし、
学校運営の基盤として
学校財務のPDCAサイクルも主導している。
学校運営の変革として、
校則の見直しに参画する必要性も考えられるし、
学校財務のマネジメント職として
財務・費用・経済面からの取組は必至だ。
また「ナナメの人間関係」(外部人材の活用)の
重要性も訴えている(p.86)。
事務職員は外部人材ではないが、
生徒指導における教師と子どもの関係では、
「ナナメ」から関われる
貴重な存在にもなれるだろうし、
実際にも校則改革を主導した実践もある。

費用面といえば、
『隠れ教育費』の共著者である福嶋氏は、
経済的負担から校則を論じ、子どもの権利という
視点も加えている(第5章)。
『隠れ教育費』では、
校則問題にも繋がる制服・指定品類について、
その歴史・理念・実態・対策を論じ、
それ相応の費用がかかることを明らかにした。

本章では、
その費用負担を伴い遵守し(子ども)
遵守させている(教師)校則問題に切り込んだ。
また、経済面以外に子どもの権利という視点で、
着脱の主体である子ども、その多様性を指摘し、
さまざまな「有害」現象を推察している。
たとえば、
「自己決定権」の剥奪、
「感覚過敏、アトピー性皮膚炎」の苦痛、
「性自認、宗教」アイデンティティーとの齟齬、
「不登校」「性被害」などへの影響……
校則による縛りが
子どもの人権侵害にも繋がるという
さまざまな可能性を指摘している(p.110)。

特段に記しておきたいのが、
経済的側面をめぐる言説の検討(p.112-120)。
「制服購入義務論」(①)
「制服割安論」(②)
「就学支援制度万能論」(③)
をあげ、それぞれの問題考察と
検討の過程や根拠には一見の価値がある。
一般に、
保護者には子どもを就学させる義務があるから、
制服の購入も義務であろう(①)。
私服のほうが制服より高額になるから、
制服の購入も推奨されるべきだろう(②)。
経済的に困窮している家庭には、
就学支援があるから問題はないだろう(③)。
──といわれることがある。
しかし、本章を読めば
かならずしもそうではない現実が明らかである。

最後に福嶋氏は、
この問題の出口として「購入・着用」は
学校として「推奨する『標準服』にすぎない」
そのことを再確認し、
「機能性・デザイン・価格」を
「子どもの権利と保護者の経済的負担の観点」
を考慮し、見直すべきだとしている(p.126)。
事務職員を含めた
マネジメント職との協働により、
実現可能な提案であるし、早急な行動が必要だ。

そして、第6章では、
ルッキズム(「外見に基づく差別」)という
聞きなれない言葉と出会った。
校則のなかでも外見校則を焦点化している。
その論点は2つある(p.130-133)。
「本来はその場面に関係がない(irrelevant)
 にもかかわらず」、「顔立ちや体型、髪型や
 服装を理由に採用されなかったり、
 低い評価を受けたりする」こと
=イレレヴァント論としてのルッキズム。
現代社会における「よい外見」には
「ある偏り(bias)」を含んでいるが、
「そうした外見の持ち主が高い評価を得ること
 を通じて、ジェンダー、人種、年齢などを
 めぐる社会的不平等が強化される」こと
=バイアス論としてのルッキズム。
これらのルッキズムを
校則問題に引き寄せると
現代社会の校則が懐疑的にみえてくるだろう。

最終章(第8章)で
編者の山本氏が言うように
校則は「み……」おっと、ネタバレは慎もう。
しかし、それしかない。
それであるべき結論だ。
むしろ、
それができる環境を整えていくことが
「校則」にかかわっている人間の使命だろう。

「民主主義と学校」を捉え直す第一歩として
「だれが校則を決めるのか」──

それぞれの読者が思いを馳せるための
そのきっかけとなり、
学びの前進にもなる1冊だ。

福嶋尚子さま、
ご恵贈ありがとうございました。
──第5章、多めに触れておきました(笑)。

#民主主義
#校則
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https://www.iwanami.co.jp/book/b616713.html

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