映画『ナラタージュ』の魅力 ②
こちらの記事 ↑ の続きです。
・雨(水)に濡れる/濡らされる/濡れない/濡らす に見る泉の変化
言外の表現の豊かさについては①でも触れましたが、そのなかでも注目したいのが雨です。
「雨の音や匂いで あの頃の感覚がよみがえってくる 寂しそうな目をしてた 今も私はあなたを思い出す」
冒頭、こんな泉の語りから始まり、前半、印象的な場面はことごとく土砂降り。この作品において雨が重要というのは言うまでもないと思います。また雨だけでなく、川、海、プール、シャワー等々、この作品はつねに水の音や匂い、潤い、湿度の感覚とともにあると言っても過言ではないでしょう。主人公の名前が、水が湧き出る「泉」というのも、もしかしたら何か意図しての名前なのかもしれません。
これに関しては少々深読み過ぎるかもしれませんが……それにしても、泉はずぶ濡れのシーンが多いです。高校時代、屋上で雨に濡れ、プールに突き落とされて濡れ、大学生になってからは小野の告白シーンで帰りに傘が無くて濡れ、葉山との浴室での散髪シーンでもシャワーでずぶ濡れです。この、雨や水と泉のシーンを辿っていくと、泉の心の機微――今にも壊れそうなガラス細工のようだった少女から、次第に変化していく彼女の内面に少しだけ触れることができるのではないかと思います。
まず序盤、先にも書いた小野の告白のシーンから、さらに過去の高校時代の回想に繋がっていくこんなシーンがあります。
文化祭に向けて稽古が進んでいくなかで泉は、小野くんという大学生と親しくなり、彼の部屋で告白されます。小野くんは泉の高校の同級生とかではなく、黒川という泉と同級生で同じ部だった男子が連れてきた演劇経験者です。柔らかい印象でさっぱりとした好青年で、二人で観劇に行ったり飲みに行ったりする仲になるのですが、未だ葉山先生への思いを抱き続ける泉は、告白を断ります。そして小野くんの部屋を出て帰ろうとするのですが、外は土砂降りの雨。傘を持っていなかった泉は、仕方なく濡れて帰ることにします。
「傘が、無かった」
雨とともに泉の語りが入り、場面は高校時代の雨の日の回想へと移っていきます。
映画館で葉山先生と泉が上映後に会ったシーンです。その日も天気は土砂降りで、泉は傘を持っていなかった。でも、偶然会った葉山先生が傘に入れてくれて、二人は駅まで映画の話をしながら一緒に帰ります。
この
「傘が無かった日=小野くんを振ってしまい、ひとりで帰った日」
と
「傘があった日=葉山先生と偶然同じ映画を見て、その話をしながらふたりで帰った日」
の対比が、
告白を受けてもそれに応えることはできず、しかし想いを寄せている先生のことはわからない。ずっと会いたくて、やっと会えて、気持ちは変わらないのに、言葉でやり取りをしようとするとどこか微妙に逸らされて煙に巻かれてしまう。そんな、この時点での泉の心境と重なるように思います。
「雨」というものを、その物語のその場面の雰囲気や中心人物の心境に重ねて意図的に使うというのは、もう何千何万とやられてきたやり方だと思います。映画だけでなく、古来から文芸や芸術において長いこと描かれてきたモチーフのひとつとも言えるでしょう。
雨は、生き物に水という「恵み」をもたらす半面、人や生き物の力ではどうすることもできない、簡単に命を奪い去っていく「災厄」をもたらすものとして畏れられてきました。また、単純に、陽の光が隠れてあたりが暗くなるということもあってか、比較的悲しく暗いイメージとして捉えられる傾向が強いと思います。
例えば、誰かとの別れのシーンや、人が亡くなるシーン。決していい決着のつき方ではなかった戦いの、終わりのシーン。「涙」のイメージ。雨の中で泣くシーン。泣きたくても泣けない人が雨音に紛れて嗚咽するシーン。
想像するだけで気が滅入りますが、そういった暗い、どん底の状態に重ねて使われることが多いように思います。
こういう雨のシーンについて、重ねられている「悲しい」という感情からもう一歩引いて考えてみようとするとき、それらは何かの「区切り」「境」のシーンである、ということが見えてくるのではないでしょうか。
涙はどういう時に出てくるかと言えば、やはり感情がこらえきれず絶頂に達した時。誰かが亡くなったり、別れなければならなくなり、シーンによっては誰かを殺してしまったり、自分のなかの何かと決別したり、そうして絶頂あるいはどん底に達した時、永遠にそこに留まり続けるということはあり得ません。また次のシーンが始まります。雨はそんな、夜明けを予感させるようなシーンの一歩手前、どん底にして絶頂の一番暗い「夜明け前」の状態に重ねられるものとして扱われてきたとも考えられます。
そう考えると、単に「涙」や「悲しい」というイメージだけでなく、物事の境界のような地点・時点で罪や穢れを洗い流す「禊」のイメージにも重なりそうです。
そんな、雨のイメージを頭の片隅に置きつつ、他のシーンについても考えていくと、一つひとつが物語の大きな境だったり切り替え部分になっているように思えてきます。特に、浴室でのシーンというのは、この作品を真っ二つにするような大きな境目のように思います。
さて、泉と雨・水のシーンを
映画の流れとは別に、時系列で考えていくと……
屋上で雨に濡れて、どん底だった泉に葉山先生が声をかけて二人は出会います。泉はクラスに馴染めず、プールに突き落とされてずぶ濡れに。そんな彼女を見かけた葉山先生が全力で庇ってくれたところから、泉は少しずつ回復していきます。
その後、二人は映画館で偶然会い、葉山先生の小さな傘に守られて二人で歩きます。「雨(水)に濡れる」という状態から守ってくれる存在ができた、という風にも捉えられる場面です。
時が過ぎ、大学生時代、小野から告白されて断った帰りに雨に濡れ、泉は熱を出します。そして、看病しに来てくれた葉山とはぎこちないやりとりをすることになってしまいます。
数日後、今度は葉山からのSOSを受けて、泉が傘をさして彼のもとへと向かいます。葉山は雨に濡れてはいないものの、車の中で、まるで土砂降りに閉じ込められたかのように、いつになく弱っています。泉の運転で二人は、強い雨の中を進みます。この、濡れてばかりいた泉が「自分の運転で葉山を乗せて雨の中を進む」場面が、先の「葉山の小さな傘に守られて歩く泉」とどこか対比になっているようにも感じられて、高校生で、守られてばかりいた泉の成長・変化のあらわれのようにもうつります。そんな泉の存在は、葉山にとっても、数年前の生徒としてただただ守ってあげたい、頼られたいという存在から、自分の想いを吐露できる、頼りにもなる存在へと変わっていったのではないかと思います。
土砂降りの車内で語られた、葉山と彼の妻の現状。辿り着いた葉山の家に、大切に残されていた妻のモノ。離婚していないという事実。それらを知ったうえで、泉は葉山に口づけます。そして、風呂場で荒々しく降り注ぐシャワーの水が、共犯関係となった二人を濡らします。
③以降では、
・葉山のゆらぎ、小野の焦燥感――美しくてきたない「人間」
・『エル・スール』と『ナラタージュ』――引用作品でさらに立ち上がる人物像
・「工藤泉の『ナラタージュ』」である、という大きな意味
などについて書いていこうと思います。
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