「人生は無意味」の次のこと

 少し前まで、歳をとればいろいろとあきらめがついてこの苦しい自意識からは解放されていくんだと思っていて、それが喜ばしくも悲しくもあった。偶然生まれただけでいつか死ぬんだから、私の美学や羞恥心に意味はない。できることなら楽しくしていたいね、というような。

 春に新橋駅前の古本市でなんとなく買った中島義道の『私の嫌いな10の言葉』がおもしろくて友だちにすすめたら、彼が気に入って他作品にも手を伸ばした。それでおすすめし返されて『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』を読んだ。中島氏の書きぶりは毎回痛いほど正直で気持ちいい。

 『カイン』は、周囲の期待に応えようと努力して(させられて)きた「いい子」の自分、しかし「何をしたっていつか必ず死ぬ」という絶対的不幸を知り「ではなぜ生きるのか」を悩みつづけた自身の幼少~青年期を振り返り、その弱い自分を克服するため30年かけて身につけた術について書かれた本だ。

 彼は悩み尽くした末に、他者に期待することを一切やめた。他者に振り回されず、他者を愛さない。不幸にもならないし、幸福にもならない道を選んだ。弱いまま美しく生きようとすることをやめて「強く」なった。

 私も中島氏と同じように油断するとすぐ「いい子」をやってしまう人間で、12歳くらいからはずっと自分とは何なのかとか生きる意味とかの答えのない問いに取り憑かれていた。いつか死ぬ日が来ることも怖くてたまらなかった。

 中島義道を知ったのはカント研究者としてだ。大学1年の夏期、つまり入学してすぐ「ドイツ語圏思想」という哲学の講義をとり、期末レポートの参考文献として『悪について』を読んだ。「偽善は悪であるか」という18歳の人生初レポートにしては重すぎるテーマで書いた。書くほどに考えが拡がり、夏休みまで提出を延期させてもらって取り組んだ。

 しかしその後ゼミで哲学を専攻するか迷ったときに「哲学は幸福から遠のいていく道のりだ」と言われたり(実際その通りである)、自分とは何なのかを知るため自己論に手を出したときには「ハマると危険」と忠告されたり、とにかく周囲から警告を受け、そして何より自分自身が問いを究める道へ進む自信がなくて、学部生のうちでふわっと手を引いてしまったのだった。

 こういう意気地のない人間だから毒にも薬にもならないことを言ってのらりくらりと暮らしているのだが、とにかく自分の抱える苦しみと向き合いきれないままここまで来たのである。

 当時、愚かな私はなんらかの「答え」を求めていた。できるだけ世の中のすべてを、真理を知りたがっていた。それが自分の生きづらさ、苦しみから抜け出すための希望だった。そんなことだから周囲に止められていたのだと今は思う。

 自分の正体や人生の意味、生きづらい理由がわかって、そうか、じゃあそれに対してどう生きるかを考えようみたいなことであれば、学問とは単なる情報のかたまりになってしまう。そんなシンプルな話のわけないやろがい……

 2年ほど前に私は「人生は無意味」説を採用した。前向きなニヒリズムだ。そうすることで「自分は何をするべきか」とか「世間の期待に反抗したい」みたいな問題で苦しまなくて済むと思われた。実際「生まれてしまっただけで意味はない。ただ死ぬまで生きるだけ」という説明は間違いではないだろう。(詳しくは以下の記事に)

  そのとき私は「死ぬまでに出会うすべての感情を味わうため」と自分の人生の意味を決めてみた。しかし、それからも苦しさはあまり軽減されなかった。

 現実に衣食住が保たれた環境で生きていると、次にどうしても自分の存在の意味やあり方に目を向けてしまう。自分が社会の一部として機能しているかどうかの話も避けがたいし、美しく生きられているかという観点でも苦しい。「人生は死ぬまでの暇つぶし」みたいな言葉があるが、そう決め込んで適当にやり過ごすには長すぎるし、わざわざそんなことを言わなくちゃいけないのは人生に真剣であることの裏返しだ。

 他にも私は、例えば人生の賛美歌を作りつづける小沢健二の詞(特に2017年以降の)に感動したりもする。他者に過度な期待はしたくないが、しかし何かを分かち合いたい。誰かとかかわりながら幸せに生きることを願わずにはいられない。中島氏のように、他者に一切期待せず幸福を追求しない鉄壁の「孤独城」を築くことはできないし、今後もしないだろう。

 一時期は「人生は無意味だ」と明るく宣言することでなんとなく解決した気になっていたけれど、事実上、私のややこしい自意識との戦いが(無理やり目をつぶることはできるかもしれないが)円満に終わることはどうやらなさそうだとわかった。また苦しみに向き合っていかなくちゃならない。

 中島氏は「なぜ生きるのかを知るために生きる」という。それが彼の生きる意味だ。どうせいつか死んで宇宙のなかに永遠に消えてゆく人生に答えを求めるのは無意味だ。しかしそれでも苦しみつづけながら無意味へ向かっていく。なんて誠実なことだろう。

 生きる意味が「わかって」しまうことはない。だからこそ死ぬまで真理を求める。人生に価値はないと言い切る哲学者がそう結論づけたことに少し勇気をもらいもした。別に中島氏のような偏屈さをきわめた大人にはなりたくないけれども……

 自分が繊細で敏感な面倒くささを抱えた人間であることを悔やんでも、今から鈍感な人間にはなれないんだから仕方のないこと。自分に対して楽観主義を装ってごまかしてもまた苦しむだけなんだ、覚悟して参ろうぞ。


まずはきみの感受性の芯を探り当てよう。(中略)それを表現することがきみにとって絶対に必要か、もしそれを表現しなければきみは生きていけないかどうか、真剣に自分に問うてみる。その芯はきみを苦しめつづけるものだ。だからこそ、きみの宝なんだ。だから、きみはその芯を根絶して、健康になってはならない。そうきみが確信するなら、きみは書くことだ。

中島義道『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』
「まもなくきみは広大な宇宙のただ中で死ぬ」
pp. 207-208


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