古賀及子『気づいたこと、気づかないままのこと』

 こがちかこ、と私のiPhoneで打ち込むと「古賀周子」という惜しい漢字が自動変換にあがってくる。私は一度それを選んで確定し、「周」を消して「及ぶ」と入力して修正する。以上の作業をここ数年でもう何度やったかわからない。それほど身近な誰かに読むことをおすすめしてきた書き手が、古賀及子さんだ。そろそろ正しい表記で単語登録してしまったほうが早い。

 古賀さんといえばWEBで書かれてきた日記がおもしろいことで有名だ。はじめて彼女の日記を読んだときに私は衝撃を受け、興奮し、これはさくらももこのエッセイよりおもしろい! とまったく必要も意味もない比較をしながら家族にアピールした。興奮ですぐ極端なことを言うのは私の癖。

 他の読者のみなさんと同じように、古賀さんやその子たちのことをだいすきになった。彼らの暮らしのかがやきがつづくことを現在進行でねがっている。

 もともと私はライター・スズキナオさんの文章が好きだ。WEBメディアの「デイリーポータルZ」でスズキナオさんが書く記事の編集を担当されていたのが古賀さんだった。だから入口から好感はあったのだが、読んでいくうちそれはもう飛び級的に、10歳で大学入試を突破した鬼才児みたいな速さで彼女の文を吸収し、大好きになってしまった。気分はもう、古賀及子大学に首席入学である。

 誰かをこういうふうに好きになると人は不安を感じるもので、①あまりに盲目的になっていないか、②自分の書くものが影響を受けすぎないか、のおもに2点を心配したのだけれど、今のところどちらも問題ない。

 ①については、私が古賀さんを好きになった2022年頃から、彼女の本(や存在自体)がそれまでにも増して急激に売れはじめた点でクリアになった。私は古賀さんが自費出版された日記本を2冊読んでいたが、そのあと素粒社から初の商業出版をされ、めきめきと読者が増えたように見えた。あらゆるイベントが開かれ、あっけらかんとしていながら親密さのある古賀さんのトークに誰しもがハートを射抜かれる。そのようすを眺め、この好きの気持ちの“正しさ”が社会的に証明された気がし、ここへ入学する選択は間違っていなかったよねと自信をつけた。

 ②については、もちろん影響なんて受けまくるのだが、結局私が古賀さんの真似をしても古賀さんみたいな文が書けるわけじゃねえ! とすぐに気づいてあっさりと解決した。我ながら勘のよさをほめたい。

 とにかくこのように私は古賀さんの書くもの――日記も、WEBメディアでのコラム記事も――に心をときめかせ、古賀さんの存在に背中を押されて自分でも日記本を作ったりもした。そして、この『気づいたこと、気づかないままのこと』は彼女の初エッセイ本ということで楽しみにしていた。

 じっさいに手にとると、遅読の私でも本気を出せば一日で読んでしまいそうだった(読んでしまいそうで読んでないあたりが私のかわいげです)。

 古賀さんの日記の、ユーモアが詰め込まれたばらばらな日々をつまみ食いできる居酒屋的な散漫さは気持ちいい。いっぽうエッセイは、断片をかき集めて古賀さんという総体を私のなかに構築していくコース料理的味わいが強まり、日記本よりもすいすいと体内に流れ込んでいった。

 これまで日記や記事で接してきた、せっかちでおもしろい古賀さんが好きだ。しかしエッセイでの彼女はひとりで記憶の大海を遊泳するような低速感とちょっとした暗さがあり、こちらもいい。古賀大……日記学部、コラム学部、編集学部だけじゃなくって、新設のエッセイ学部もやっぱり強いんかい……。

 読んでいて意外に感じたのは、自他ともに多感をみとめる古賀さんの人生にも、ちょっとぼーっとしたところがあったことだ。

 20歳そこそこの古賀さんは、彼氏と彼女、恋人どうしというのがどういうことなのかよく知らなかった(「せかいの恋人たち」)。それにより古賀さんは当時の恋人をしっかり傷つけ、その応報を受けていた。私の知っている感性豊かで人を笑かすことに余念がない古賀さんにも、そういう側面があったのだ。また、小学生の頃いじめがよくわからないままはじまりおわった話(「渡り廊下と札幌」)も忘れられない。いじめが「ただ悲しかった」こととして流れゆくにぶさを、あの、ささいなことに敏感な古賀さんがもっていたなんて!

 多感な古賀さんしか知らない私は、古賀さんが昔からずっと多感な人だと思いこんでいた。でも彼女はあとから「気づいた」のだ。そしてどうやら「気づかないまま」のこともあるらしい。気づきの天才である古賀さんが気づかないままでいることがこの世界にまだいっぱいあるとすれば、それは希望だ。だって彼女はいつでも誰よりもはやく、誰よりも小さいことに気づいてしまうから。なんとかして一度くらい古賀さんより先に気づいてみたいよう。

 しかも気づきかたがまたいい。解説で長嶋有さんが「文がその横に回って、しげしげとみてみせる」と表現するものだ。過去のできごとをふり返る。それをいまの立場から肯定したり否定したりせず、ただ眺めて気づきを味わう。あるものごとについて「そのようである(あった)」とだけ言うことは、やってみるとたいへんに難しい。

 そういう文章はできごとの重さを均してくれる。当時の自分にとって背負いきれないほど重かったできごとは、軽くなるというか、平凡でたやすく引き受けられるものに、ちょっとだけなる。いっぽうで、どうでもよかったできごとには輪郭がそなわり適度に重みづけされ、印象に残る記憶になる。思い出をポータブル、かつアクセスしやすいものにしてくれる。

 このような古賀さんの気づきかたにあこがれてきた。これからもずっとあこがれの人。だけどそんな彼女が気づかないままのことがある。もう一度言うが、それは希望だ。上ではふざけて「古賀さんより先に気づいてみたいから」と書いたけれど、ほんとうは、これからもまだまだ古賀さんが気づくさまを見ていたいからだ。

 古賀さんの息子がよく知らないものを好かない話(「めがねの道」)が書かれたずっとあとで、彼女自身が幼いころによく知らないスーパーファミコンを恐れていた話(「よなかの親子」)がでてきた。このすっげー親子らしい共通点に、古賀さん自身はもう気づいているだろうか。当然とっくに気づいているのかもしれない。でも、まだ気づかないままだったらいいのにな。





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