インターネットという病に思う

インターネットという言葉が陳腐化して久しい。
今ではネットと略されとりあえず接続ができている「それ」の実態について考えなくとも常にそこにあるものと思えるくらいに定着したという事なのでしょう。
場合によっては電波とネットの区別がついていなかったり、用語・単語の用法も新時代の潮流によって形を変えているものもあります。

スマートフォンなどのポータブルデバイスの普及によって今や多くの国民が無意識にインターネットを使用しそれが日常の風景となっていますが、残念ながらそれを使うに値しない人が多くを占めているのではないかという懸念と疑念は拭い去れないままでいます。

かつて2000年問題でIT産業が特需に沸いた頃、まだ携帯電話でのインターネット接続は始まったばかりでした。
その頃から携帯電話などのポータブル機器の大幅な性能向上によって当時のパソコンと同等のインターネットサービスの利用が可能になる事は予見されていましたし、同時にそれによって大幅な利用人口の増加、延いては利用年齢層の拡大とそれに伴う事件やトラブルの可能性について危機感を持って提唱が行われていました。
具体的には「カメラ機能による盗撮や個人情報の漏洩」「画像や音楽データの違法利用(漫画などの無断アップロード)」「悪意を持った誤情報の拡散」など。
現在まさに問題となっている利用者モラルの低下と自己防衛について、広範な教育が必要なのではないかという議論も盛んにおこなわれていました。

これらは実際には業界団体や著作権管理団体などによる啓蒙、広報が行われましたが、利用者に対する広い訴求や教育という点においては国の対応や支援が全く実情に追い付いておらず置き去りのままになっていました。
現在情報化教育が推進されようとしていますが、これからの時代に即した教育であるのか否かと言ったら首を横に振るしかないと感じています。

賢い利用者を育てなければならない

インターネットの利便性は今更語るまでもありませんが様々な情報に自在にアクセスが可能である点と、個人の情報発信が容易なため速報性の高い情報を得る事が出来る事です。
蓄積された知識の利用が出来れば、ニュースソースに頼らない事件や事故現場のリアルな情報を得る事も出来ます。
これは既存メディアの役割を代替しているとも言えますし、個人でも力を持ってメディアのようにふるまう事を可能としました。
双方向であることもメリットであり何らかの情報に対して自らの意見をコミットし、新たな提案をツリーとして拡大していくこともできるようになりました。

現在これらの利用者は爆発的に拡大しており、オープンな場として存在するFacebookやTwitterなどのSNS、グループを作成してクローズドなコミュニティを形成できるLINEやDiscordなどのツールによって様々なクラスターが発生しています。

原則的にこれらのクラスターは小さな世界でありそこで培われた常識はあくまでもその集落でのルールに過ぎないのですが、これを誤解して自分は正しいと思いこんでしまう人が発生します。
インターネットは基本的に個人の世界であり、立ち振る舞いを正してくれるような人は存在しません。
自らの行動に理性と知性をもって俯瞰して行動できる人材を育成しなければ、インターネット発のモラルの欠落や崩壊は今後さらに大きな社会問題になっていきます。

正義の拳が人を殺す

インターネットは個人の世界である事、クラスターで培われた作法でしか判断基準を持たない存在は時として暴徒になります。
大きな事件や事故などの社会に影響を与えるような出来事に対して、狭い視野で物事を判断する人は義憤を拳に込めて対象に向けて振るいます。
同じように多数の正義の人が対象に向けて拳を振るえば一つの対象は何百何千、場合によっては何十万という拳に晒されてあっという間に壊されてしまいます。

この国は法治国家であり法によって裁かれるべきものであれば法で裁くべきで、外野の怒りで殴りつけていいものではないですしそういった行動の一つ一つにも責任を問うべきものです。
こういった発言や行動に対する責任の追及についてはもっと議論が進むべきですし、積極的に摘発していかなければ誤解や思い込みによる過激な行動は今後もエスカレートしていくと考えられます。

ごく最近のケースではあおり運転の犯人の同乗者であると誤解され、多数の無関係な人間から攻撃されて法的対処を行うと発表した事例や、飲酒運転の事故の犯人と同姓であったため会社に抗議の電話をかけて業務妨害を行うなどの愚かな行為で訴訟になったケースなど枚挙に暇がありません。

正しいと思って拡散している情報によってどんな影響があるのか、それは本当に正しいのかといった基本的な判断を他人任せにしている人がシェアの件数に見えている状況には言いようのない不気味さを感じざるを得ません。

狭い視野で物事を判断し勝手な正義感でクレームを付けるような利用者の自制を促す教育が行われなければ誤解や思い込みに対応するコストの高騰が続き、延いては正常な利用者が排斥されて益々先鋭化した集団を形成することになってしまうでしょう。

道徳と権利の教育を促進して貰いたい

時代の進歩に伴い学ぶべき事柄は加速度的に増え、またその為に教えるべき教程や教材、人材が慢性的に不足しています。
スマートフォンやタブレットが教育にも導入される時代においては、まず正しい使い方ややってはいけない事についてしっかりと教育を行わなければならないと考えています。
過去にはマジコンというゲームコピーツールを国会議員が子供に使わせていることをSNSで発信して大問題となったことがありました。
大人の理解が至らないことも問題ですが便利なツールがあれば知識のない子供は簡単に飛びついてしまいます。
漫画の不正アップロードで問題になった違法サイトもユーザー間で情報が拡散して利用者が爆発的に拡大しました。
他人のものを盗ってはいけませんという倫理観については家庭でも学校でも一般的だと思いますが、情報という形のないものの権利となると途端に言葉尻が濁ってしまうような状況はしっかりとした教育で改善していかなければなりません。

カメラ機能があるから写真を撮った、友達を撮ってインターネットに公開してみたなどSNSではごく当たり前の風景の出来事であっても、みだりに他人の写真や動画を公開しない事など犯罪予防や情報流出へのリスクコントロールなども含め小さいころからしっかりと教えておかなければ今の世代が犯している愚行は今後も繰り返されてしまいます。

教員だけで教育することが難しければ資格を制定して情報教育のための補助指導員を設定しても良いと思いますし、時代に即した利用者の意識向上を継続的に行わない限り本質的な問題の解決への道筋は遠いと考えます。

これからの世代に有意義な活用をしてもらうために

情報と社会が切り離せなくなった現代において、情報教育とは即ち知識だけではなく社会性やモラルなどすべての分野を包括したものに形を変えていると思います。
与えられた情報に対して広い視野で判断し冷静な分析を行うための経験は実用の中から得るものもあると思いますが、事前に学んでおくことで避けられるトラブルや被害は確実に減少させることが可能なはずです。
安易な情報の拡散や、誤った理解による情報の拡散などで本来有用であるはずの集合知を集合無知にしないためにも、個々の理解と成長を国家レベルで再定義していかなければならないのではないでしょうか。