おぼえて

 下北沢駅の前、路上で屯するバンドマンたちは、終電を逃すか否かという、答えの決まったお決まりのクエスチョンを肴に、缶チューハイで酒盛りをしている。卒業シーズンの三月も今日で終わるというのに、少しも緊張感のない街だ。閉店時間が過ぎたスーパーマーケット、やたらと細いコンビニを横目に路地を曲がると、1人の女がフェンスに寄りかかってしゃがみ込んでいた。嫌なことでもあったのだろうか、目は虚ろで、かろうじて缶を支えている右手にはいくつかのシルバーリング、ぶらりと垂れ下がった左手には無防備に画面を開いたままの携帯電話の液晶が光っていた。いつもなら、見慣れた光景だと通り過ぎているが、彼女のワンピースにどこか既視感を覚え、「大丈夫ですか?」と彼女の顔を覗き込んだ。
 それは失敗だったのかもしれない。彼女の顔は、深夜に定期的に送られてくる長文メッセージのアイコンで見慣れていた。僕の顔を一目捉えた彼女は、缶を路上に転がし、両手で僕に抱きついてきた。面倒なことになった、と後悔してももう遅い。彼女は震える声で僕の名前を繰り返した。一息ついて、両腕に力が籠る。
「ごめんなさい。」
最後の一文字はほぼ涙声で掠れていた。
 彼女が落ち着くまでは、そのままの姿勢でいるつもりだった。しかし、何十分経っても僕から離れようとしない彼女に、痺れを切らした僕は体を離した。
「終電がもう直ぐなんだ。それに、もう何ヶ月も前のこと。いい意味でも悪い意味でも僕の興味の範疇にない。僕には今恋人だっている。だから、落ち着いたなら、離れて。」
彼女は口角だけをあげた歪な笑い方で、呻くような声を漏らすと、僕の手を振り解いて、両腕を僕の首に巻きつけ、顔を首筋に埋めた。
「わかってますよ。だから、二度と同じことしないように覚えているんです。」
僕は突き放すことができなかった。路上で2人地面にもたれ込んだまま、さっきまで彼女の飲んでいた缶が転がる音が聞こえた。よく見ると、それはお酒ではなく、ノンアルコールの缶だった。彼女はお酒を飲まないのに、「木村さんの声聞きたくて」と、酔っ払ったふりをして電話をかけてきたこともあった。
「私がもう二度と、木村さんの虚像を見ちゃわないように。本当の木村さんを、覚えられるように。忘れないように。」
彼女が、僕のことを信じないと言い切ったのはだいぶ前になる。彼女は今でもそのことを後悔しているらしい。
「木村さんの柔軟剤の匂い、たまに吸うタバコの匂い、腕を回した時の首の円周はこのくらい、腕の長さはこのくらい。」
そう言いながら、僕の骨をなぞっていく。あまりにも繊細なその動きに、僕は抵抗することができなくなってしまった。
 「よし。」そう言って、彼女は僕の元を離れ、転がった缶を拾い、涙を拭った。
「覚えたから、大丈夫。」そう言って自分の爪を眺めた。

『私、不安になると爪見ちゃうの癖で。』横にいた君はまだ夏の蒸し暑さに包まれながらそう言っていた。

あの日からは季節は二つほど過ぎている。爪に落とした視線を動かさないまま、彼女は息を整え、そして僕の目を無理やり作ったような笑顔で見つめた。
「しっかり本物の木村さんを覚えたから。」
一度携帯の液晶を見て、少し笑みを浮かべた彼女は、僕に向き直って言った。
「私は、」
大きな涙の粒を溢しながら、僕を指差し明るい声で言い放った。
「最終的に私を1人にした、木村さんのこと、大嫌い。」
彼女の手にはいつの間にか拳が握られていた。
「木村さんなんて世界で1番不幸になっちゃえ!」
泣き笑いしながら大声でそう言うと、ゆっくりと腕を下ろした。そして、僕に背を向け、しっかりとした足取りで小田急線の改札に向かった。呆気に取られた僕を、一度も振り向きはしなかった。
 「やべ、10分前に日付変わってんじゃん!誕生日祝い損ねたわ!」
路上のバンドマンの声で我にかえる。慌てて終電を調べ、なんとか家に帰れそうなことに安堵した。早足で街を出ようと歩き始めた時だった。
「俺の誕生日、みんな本気で覚えてるのか心配なんだよな。簡単に嘘つけるし。」
その言葉で僕の足が止まる。

『世界で1番不幸になっちゃえ!』

彼女の声が脳を反芻した。
君と出会った、春が来る。


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