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「推す」ことの一貫性と多様性〜推し活専門店 「オシアド原宿」に行って考えたこと〜

 今日は、私と同じようにジャニーズが好きな友人とお出かけをした。渋谷〜原宿間を行ったり来たりしていた中で、お茶したいね、という話になり前々から気になっていた「推し活専門店 オシアド原宿」に行ってきた。そこに行って、いくつか考えたことがあるので忘れないうちに書いていこうと思う。最初に言っておくが、お店の批判やコンセプトの否定、悪口や嫌な口コミなどを書くことが目的ではない。これは我々の「推す」という感情がいわば具現化され、それを目的としている店の「批評」である。

 若い男性の店員さんに店内へ案内されると、「お客さまご来店です」「いらっしゃいませ推し主様」という声が店内に響いた。この時私は、まるで接待の伴うコンセプトカフェのようだと一瞬警戒した。この警戒感も、後に話に登場するのだが、「推す」ことに対する価値観の相違が原因なのだと思う。
 席に着くと、オシアドカフェのコンセプトや、店のメニューについて説明を受ける。店のメニューには、推し文字アクスタ、推し文字缶バッジ、推し茶、推し茶に実際に使用されていているハーブティーのティーパックなどがあった。推し文字アクスタとは、推しへの推し感情を文字に起こしたものをアクスタにした、という感じだ(写真参照)。

推し文字アクスタ(公式Twitterより)


推し文字缶バッジ(公式Twitterより)

 このカフェのメインとも言えるのは、「推しのイメージの色と香りで概念を形にするハーブティーソーダ」、推し茶である。これは、推しのことについてオーダーシートに書き出し、イメージの色、香りによって一人一人違う「推し茶」を作っていただけるというもの。今回はこれをオーダーした。価格は880円。ドリンク一杯にしては少し高い気もする。

推し茶のカラーバリエーションと香り(公式Twitterより)

 オーダーシートは数種類の中から選べる。今回私が選んだのは、写真のもの。魅力や、一言で表すと、など推しのことを考えながら書くのでより推しのことについて深く考えるきっかけにもなった気がする。上半分はドリンクに反映されず、下半分には色や香りなどが反映される。私が書いたオーダーシートは以下。

「推し茶」のオーダーシート(公式Twitterより)
実際に私が書いたオーダーシート

 オーダーシートを出してしばらくすると入り口付近の壁に呼び出される。そこには照明が付けられている棚にドリンクが用意されていた。照明の色は自分で変えることができ、そこでアクリルスタンドやマスコットなどと並べて写真を撮ると、いわゆる「映え」という感じだ。

実際に私が頼んだ「推し茶」

 今回は私は彼のメンバーカラーである青を基調としたドリンクを作ってもらった。香りは、甘いイメージに合わせてローズをベースに甘くしたという。写真を撮るのがとにかく捗った。
 味は上質なハーブティーに、シロップと微炭酸が入っている、という感じである。880円という価格はやはり高い気もするが、このようなサービスまで含めての料金なのだろう。

 こんな感じで私の初・オシアド原宿は終わった。ここから考察に入る。

 まず、私の偏向として、完徹は出来ていないものの、「推しは偶像的なものである」というものがあるのを念頭に置いていただきたい。「推しは決して日常に組み込まれたものではなく、日常には関与しない非日常」という考えがあること、推しに「人間性」を求めていない、ということを前提として考察を進めていく。

 私がまず話題としてあげたいのは、店内の客のことを「推し主様」と扱っていたことだ。主は文字通り「あるじ」という意味であるとすると、推し活においての主、すなわちメインは客側である「オタク」であるということを意味する。これは、推している⇄推されているの相互関係の中で、「推している」側を主として取り扱おうという店側の考えが見てとれる。
 ここに、私の疑問は生まれたのだ。私にとって推しは日常ではない。つまり私の中での「推し活」は「私自身」ではないのだ。そして、私は「みんなの見ている推しが好き」なのではなく、「私と関係している部分での推しが好き」なのである。この部分を加味すると、私の推し活の中で、「推し⇄私」という相互関係はなくてはならない構成要素なのである。「推し活をしている私が1番好き」とは確かに思うが、それは「推し活をしているから」というより「推しのことを考えて動いているから」という方が的確であろう。このようなことから、推しとの相互関係が切り離されて考えられているこの仕組みは、私の考えとは違うものであったことがわかった。

 次に話題としてあげたいのが、オーダーシートの上半分である。ここには、「推し活」には「推し」ありき、という考えが込められている気がする。オーダーシートの上半分は、ドリンクには反映されない。しかしながら、推しのことをしっかりと考えなければいけない項目がいくつもある。ただ推しのイメージカラーやフレーバーのドリンクを買うだけなら他の店でもできるはずだ。しかし、ここでは一度推しのことについて深く考えなければいけない。このオーダーシートはその部分をよく考えて作られていると思った。ドリンクを作るために推しの色々なことを思い出し、書くことは、私たちに再度推しの魅力をインプットさせる行動だと思う。

 最後に、グッズ、フォトスポットである棚、ドリンクのカップに大きく書いてある「推しです」の文字などの「写真映え」要素についてである。写真映えの文化は、原宿から発信されたと言っても過言ではないだろう。このグッズ、フォトスポット、カップからはそう言ったような原宿の「ポップカルチャー」が感じられて、とても興味が引かれるものである。しかしながら私が提示したいのは、この一連の要素は、推し活を写真映えに全振りしてしまうことを助長しているのではないかということである。近頃のSNS文化、特にInstagramの発達により、「インスタ映え」なる言葉が生まれたくらいだ、ある程度の写真映えは企業戦略の一部として組み込まれてもおかしくない。私も、推しのグッズと写真を撮ったり、ライブ会場で写真を撮るのは好きである。しかしながらこの戦法は、私はそれに「推し」という存在をある意味「利用」しているのではないかと思った。推しはそもそも写真映えのために生まれたものだろうか、ということを考えてしまう。私の中で、推し関連のもので写真を撮るのは「SNS利用」というよりも「自己満足」である。だから、自分が満足したら写真を撮るのをやめてしまうし、自分の写りなんてどうでもいい、となっている時もある。推し活が写真映え文化に全振りされてしまうことで、先ほども述べたように「推しを推す活動」が「オタク主体」の活動になってしまうのではないだろうか?この要素は、それを助長している気がする。

 ここまでの考察を経て、顕著に現れたのは、私とカフェとの「推し活」への考え方の差異である。このように、「推し方」ないしは「推し活」への考え方には一貫性がない。しかしながら、このような概念的なものを具現化するには、一貫性を持たせなければならない。だから、このような企業戦略と私のようなオタクとの間でズレが生じてしまうのは仕方のないことなのだ。多様なオタクの「推し」への考え方の中で、一部の考えだけでも概念から具現化を果たしたこのオシアド原宿は、とてもいい着眼点だと思う。

 オタクが多様であることで、こうした様々なヒントが生まれ、たくさんのアイデアが生まれるのだと思う。しかしながら、具現化された一部の概念に一貫されることなく、変わらずオタク文化はもっともっと多様でありたい。

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