見出し画像

アイドルを「信仰」する

 アイドルに対して信仰心を持ち始めたのはいつ頃からだろうか。アイドルは元来、「偶像」であり「崇拝するもの」であるという持論は、度々私のnoteの中で登場するが、それをはっきりと自覚したのがいつ頃かは私も良くわかっていない。

 私は現在18歳だが、幼い頃空前のアイドルブームがあったのを覚えている。それを牽引していたのがいわゆる「会いに行けるアイドル」で、そんな世界がどんどん濃密になっていくにつれて、それまであった「手の届かないアイドル」との二極化がなされていったのをなんとなく感じていた。

 私が最初に選んだのは後者だった。いや、選んだ、というより、取り憑かれた、と言う方が近いのかもしれない。圧倒的なパフォーマンスに魅了され、テレビに齧り付くように見入って、あの時画面から微笑みかけてくれた彼の笑顔をまだ鮮明に覚えているほどだ。
 不思議と私はこの時、彼に「会える手段」が存在する可能性を考えたことがなかった。私の中で彼は、「会えないことが当たり前」の存在であり、会える手段があったとしても、会おうなんて考えなかったのかもしれない。私にとって彼はまるで神様のような存在で、ずっと見ていれば心が安らぐ、そんな存在だった。思えば私はこの時、彼を「信仰」し始めたのかもしれない。

 彼を好きになって2年ほどすると、やっと彼に「会える方法」を知る。それは、ファンクラブに入って抽選権を得、コンサートに出向くという、他のアーティストとなんら変わりないものであったが、なぜだか彼に対してそんな方法があると長らく思えなかった。私は彼を「人間」と思ったことがない。私は確かに彼の顔も、声も、身長も血液型も誕生日も星座も、すべて存在していることを知っている。そして、何歳の時に事務所に入った、単なる芸能人の1人であることも知っている。しかしながら、私にはこれらの情報は、彼という概念、偶像に付帯したものに過ぎないと思っている。簡単に言うと、彼を人間だと思っていない。彼は偶像的に世界に存在していて、それになんかしらの形でこれらの情報が付帯している。まるで2次元のキャラクターに設定が後付けされているかのような感覚だ。

 彼に初めて会ったのは4年前、中学2年生の時だ。その時私は彼に会えるという実感がまるでなかったのをはっきりと覚えている。それは、「憧れの彼に会えるなんて!信じられない!」というような舞い上がり方ではなく、「彼は本当に存在するのか」という疑念で脳内が埋め尽くされていたのである。
 ライブは楽しかった。とてもとても楽しかった。私が見た彼は確かに画面の、雑誌の中にいた彼であったし、彼の発する言葉一つ一つに、条件反射のように黄色い歓声をあげている自分がいた。こうすることで、私の彼への考え方は、他のファンと何ら相違のないものであると、自分に言い聞かせていたのかもしれない。

 しかし、私が自分の考えは他の人のものと違うということを自覚したのは、「会いに行けるアイドル」に触れたことがきっかけである。彼女達に触れたきっかけはテレビでも雑誌でもない、SNSだ。SNSはもちろん運営している人間が自発的にアクションを起こすものなので、彼女達は私には「人間」として見えた。私はこの時人生で初めて「人間のアイドル」を「推す」ことになる。
 この時私は考えるようになった。アイドルを「推す」ってどういうことだろう、と。私は何故だか、同じ「アイドル」の彼と彼女を、同じベクトルで見ることができなかった。それは単に「会える頻度」とか、「会場の規模」とか、「事務所や運営の大きさ」とか、そういうようなものではなかった。

 ここで私が1つテーマに挙げたいのは、「アイドルの人間味」である。「会えない」彼には良くも悪くも、「人間味」がなかった。いや、「人間味」を感じる部分から私が無意識的に目を逸らしていたとも言えるだろう。私は彼がアイドル以外の仕事をしている時、たとえばバラエティなどで活躍したり、ニュース番組でキャスターをしている姿は、見るのが苦痛と言っていいほど見ることができなかった。「アイドルだからカッコよく決めないとね〜!」と笑っている姿に何故か魅力を見出せなかった。それは、私の中で彼は「人間」ではなかったから。そこから私は、彼は私にとって「存在しない偶像」である、という結論を導き出したのである。
 これに対して「会いに行ける」彼女達は、「人間」だった。アイドルの姿だけでなく、アイドルになる前の一般人である姿、ステージ外でのバラエティ要素のある姿、全てに「人間味」を感じたのである。そして何より簡単に「会える」「話せる」というのは、私のアイドル観とはかけ離れたものであったということ。それが何よりも大きかった。私は彼女達の「泥臭い人間の部分」まで愛することができない。私は「会える」彼女の全てを愛することができないという事実に直面して絶望した。だから、彼女たちの人間の部分からは少し距離を置いて過ごしている。

 私のアイドルへの「推し」感情は、「信仰」が背骨となっていることは、これまでの文章、そしてこの文章を踏まえてもよくわかることだろう。人によってアイドルの何を魅力に感じるかは違うし、もちろんアイドルのドキュメンタリー的な部分が好きな人もいるだろう。それは何も否定しないし、その考え方も素晴らしいと思っている。しかし、私にはそれができない、という話だ。
 アイドルを信仰すること、これは私が1番精神を保てる方法であり、私が彼に対して適切な対応が取れる唯一の手段なのである。彼は人間ではなく、あくまで「アイドル(idol)」としてそこに存在している。そう思うことで彼が「人間」として何をしようが、思おうが、その彼は私の好きな彼とは違う、と切り離して考えることができる。
 私にとって彼は人間的情報が付帯した概念なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?