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オタクをして気づく「寂しさ」

 寂しさに震えながら眠る日が続いている。なんだか誰とも繋がりがなくて、落ち着かない。ただただ寂しくて、ただただ切なくて、恋もしていないのに誰かに振られてしまったような、心にぽっかり穴が空いてしまったような気持ちだ。

 オタクになってから、誰かと繋がる幸せを覚えて、その分、寂しさの味を知った気がする。

 初めて「推し」ができた小学5年生の時、私はCDやグッズに囲まれながら、「好きな人が周りにいる幸せ」を噛み締めていた。部屋の壁を見渡せば推しがいて、本棚を見れば推しがいる。そんな視覚的な繋がりを求めて、とにかく推しがいるグッズから何から買い漁った。
 中学生になって携帯電話を持つようになってからも、街中に推しの広告があれば撮り、インターネットの広い海に多く泳いでいる推しの顔面を拾い上げては、待ち受けにして常に見れる状態にしていた。とにかく好きな人の顔が常に見れるというのは嬉しいもので、満足感に打ち震えながら毎日を送っていたことを思い出す。

 高校生になり、私はSNSを始めた。推してる界隈もひとつには収まらなくなり、複数アカウントを所持しながら、オタクと繋がるようになった。推しとSNSのDMを使って話せる界隈にもいた。
 楽しかった。SNSを開けば、推しと同じくらいオタクの情報が出てくる。通知が来て、推しから直接メッセージが来る。「繋がり」は、どんどん広がっていって、どんどん私の人生を彩っていった。

 しばらくして、いくつかの界隈を離れた。理由は様々だったが、共通していたのは「繋がりに疲れた」ということだった。繋がりに飽きて、繋がりに疲弊した私は、自ら人の輪を離れた。
 もちろん、嫌な繋がりから離れられたので後悔は何もなかったし、むしろ楽になったと思っていた。でも、そこには寂しさが残った。人とたくさん関わり合って、絡めあっていた指が離れたことで、その指の形は覚えていないのに、絡め合った記憶だけが残っていて。私は人と関わる幸せを知る代わりに、人と関わらないことの寂しさを知ってしまったのである。

 一度オタクの幸せを知ってしまったから、もう私は一生オタクなのだと思う。推しのおかげで人間らしい感情を知りすぎるほど知ってしまった。

 ある界隈の推しは、私の手に指を絡めて界隈の世界へと誘っていった。私は出口が見えなくなるくらい虜になって、それでも傷ついて、でも好きだから、とその界隈から離れられなくなって。でももう限界だ、と推しに逃げ道を聞くと、推しは絡めていた指を解いて、私に背中を向けた。あなたが私に教えたのは、世界だけじゃなくてこんな切ない気持ちもなの?

 推しに会えない期間のオタクは、渋谷駅で主人を待つ忠犬ハチ公みたいに、まっすぐ、推しがいてくれることになんの疑いもなく待っている。寂しさなど、見ないふりをして。

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