「人」が「人」を好きになること
男が女を好きになる
女が男を好きになる
男が男を好きになる
女が女を好きになる
誰も好きにならない
私が誰かを好きになる時、その人の皮の下を見てるのだろうか?
多様性
ルッキズム
最近はそんな言葉が飛び交っているように思える。
日本全体がまだそこに追いついていないのに。
いや、追いつく為に飛び交っているのでしょうか?
昔観て大好きな映画の一つ
「ショコラ」
ある狭くて小さな街にやって来た母娘。
その街は丁度断食期真っ最中で、全員が毎日教会に行き、外から来るものは受け入れない。
そこで暮らす人々は静かに過ごしている。
そこへ、主人公のヴィアンヌはチョコレート屋を開いて街の人達を明るくする話だ。
この作品は、映像だけ見ても分かりやすい。
その街で暮らす人達は、服装も暗い。
はみ出すような派手な事はせず、慎ましく暮らしている。
そこにやってきた母娘は、明るい容姿で大声で笑い、みんなが恐れる司教の嫌がらせにも立ち向かう。
ヴィアンヌが作るチョコレートで街の人達は心を華やかにし、それが見た目にも現れてどんどん明るくなっていくのが映像で分かる。
私から見た今の日本はこの作品と似てる。
みんなもっとオープンになりたい気持ちはあるのに、中々勇気や発想がない。
自分達と違う人を見ると、同じようなかたまりがクスクス笑っている。
一般市民は新しいものを受け入れようとしてるのに、トップが頑なに変えようとしない。
「日本国とはこうゆうものだ」
それに巻き込まれる人々。
私は何を見て人を好きになってるんだった?
その人の事をよく知ろうとしてるのか?
ある意味守られていて、はみ出す事もしてないんじゃないか。
もっと後悔しても良いから、足を一歩はみ出してみても…。
皆さんは毎日をどう生きていますか?
何億通りもある中の自分という一つの人生。
人によって障害物の量は違います。
自分から障害物にぶつかりたくはないけど、
それでも自分がしたい事をしたいですよね。
死ぬ前に見る走馬灯で、
「あぁ、楽しかったな」
と思えるように、
世界中一人一人、
その走馬灯が本になって、
みんなが読めるようになったら、
その時生きてる人の何かのキッカケになって
また新しい話が出来るのかも。
みんなが幸せに、は無理かもしれないけど、
せめて周りにいる好きな人には幸せになって欲しい。
周りの目は関係なく、
自分が幸せだと思える時にそばにいて欲しい。
私が好きになる人は、そんな人だと思う。
人が人を好きになるということに、周りは関係ない。
前に言ったように、空気で惹かれるなら、嘘のない空気を相手が感じてくれたら、
きっと幸せかも。
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