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ジャズ私小説「There will be another you」


もう随分前の事だが、ある風が強い雨の夜、関内駅前の立ち飲み屋で一人で一杯やっていた。
その日もいつもの様に唇がガタガタになるまで練習をした。
仲間が呆れかえるまで練習をしていたあの頃。
夢はあるけど金がない、でも酒は飲みたいし腹も減る二十代の若者だった僕は足元に愛器のケースを置いて、スマホも無い時代だったから文庫本を読みながら煮詰まった塩っぱいモツ煮を肴に安い日本酒をチビチビやっていた。
するとカウンターの隅で一人で飲んでいた優しい眼をした白髪混じりのサラリーマン風の中年が話しかけてきた。

僕の事を酒の飲み方がスマートだとか男前だとかトランペット頑張れとか、基本人見知りが激しい僕ですがあまり嫌な気がしなかった覚えがあります。

お酒も何杯か奢っていただいた、トランペットのローンを抱え金が無い僕にはとても有り難かった。
お礼を言ってそろそろ帰ろうかと思っていると、そのオッさんはあまりお酒が強くないのかかなり酔っ払い足元がふらつき呂律が回らなくなっていました。

そぼ降る雨はますます強くなりそろそろ終電を気にし始める時間。

そのオッさんにもう一軒行こうと誘われた。

酒の勢いもあってオッさんが止めたタクシーに一緒に乗り込む。
横殴りの雨の中を僕とオッさんを乗せたタクシーが走り、着いた先は野毛のクラブというかスナックだった。

なんで人見知りで警戒心が強い僕が知らないオッさんについていったんだろうか、なんとなくこの人なら信じれるという直感みたいのが僕にあったのかもしれない。

扉を開けて店に入るとカウンターの中の綺麗な妙齢のママさんに、オッさんが「今日は俺の自慢の息子を連れてきたぞ。」と呂律が回らない口で嬉しそうに言うのです。

ホステスのママさんは、なぜか特別な反応も無く淡々とウイスキーの水割りを作り、細長い煙草に火を付けました。

何度も僕を自慢の息子だと褒めてウイスキーを煽り酩酊していくオッさん。
僕は、あまりそういうの得意じゃないけどおっさんの息子を演じたというより演じなきゃいけないような気がした。

ママさんは、おっさんの話に適当に相づちを打ち水割りを作り細長い煙草を退屈そうに吹かした。
オッさんがトイレに行った間にママさんと二人になった時にママさんから聞いた話と僕の推測を加えるとこういう事のようです。

「オッさんには僕と同年代の息子がいたけど何かしらの理由で亡くなってしまい、飲み屋で似たような容姿の若者を見つけると話しかけてこのスナックに連れてきて自分の息子だと紹介している。」

オッさんは、酔いつぶれてカウンターで寝てしまい、ママさんは呆れ顔で細長い煙草を吹かしていた。

僕は、なんだかそこにいちゃいけない気がしてママにお礼を言ってからスナックを出て雨が降り続く桜木町のファミレスで時間をつぶしてから家に帰ったんだけど、煙草を吸わない僕の髪の毛や服にはママさんの吸ってた安っぽい煙草の匂いが残っていた。

それから何度かその立ち飲み屋に寄って、相変わらず足元にラッパのケースを置いて文庫本を読みながら日本酒をチビチビやっても二度とオッさんに会う事が出来ず、お礼も言えないまま月日が流れてしまった。

今でも立ち飲み屋で僕に話しかけてきたおっさんの嬉しそうでどこか寂しそうな顔だけは不思議とハッキリ覚えている。

あれから随分時が経った、時が経つのは残酷なまでに早くて、気づいたら僕はあのオッさんと同年代の中年になってしまい、残念ながら夢の半分も叶える事ができなかった。

まだあの立ち飲み屋があるのなら、久しぶりに本当に久しぶりに、トランペットを吹いた後に例の立ち飲み屋に行って、あの時のように足元にラッパのケースを置いて文庫本の代わりにスマホをいじりながら日本酒をチビチビやりたいと思う。

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