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山伏とは何かと訊ねると、「修行して祈る者だ」と星野文紘さんは言った。

本記事は2018年1月に書いたものである。

● 序

久しぶりに2012年の夏に撮った山伏修行の映像をつなぎ直してみた。

最初に編集した当時、僕がメインで使っていたiMacでは、4Kの素材をゴリゴリに編集したり、色を好きなように弄ったりすることなど夢のまた夢だったこともあるが、技術のことよりむしろ当時の自分には冷静になれるだけのゆとりがなく、一つ一つの素材に向き合うことができなかったのかもしれない。今回あらためてゼロからそれに向き合い、完全な「新作」といって良いと思えるほど、まったくもって新しいものになったはずである。いや、ずっとこういうものが作りたかったのだ。何度もシミュレーションした頭の中の「大作」は、このようなものだったろう。今回やっと宿便のようなその想いを片付けることができてホッとしている。

作中、映画ではまったく使わなかった参加者の方のインタビュー等も改めて掲載した。かつては自分の思い込みが強すぎて、小さな物語の萌芽に気づかなかったのだ。そう反省する。誰しも一人一人の裡に、物語がある。誰かの表情一つが、何かを暗示したり何かを想起させる含蓄に富んでいたりするのである。まったくもって人生を進めてみなければ見えてこないものばかりだ。時を遡れるのであればすべての人にインタビューを行いたい。人を集団として見てしまってはまったくもって知ることのないそれぞれの思いや物語が今はまばゆくおもえてくる。

本作は、ニュージーランド人のの撮影監督がREDで撮影した絵と僕の撮った拙いCanon 5D2の絵が混在している。最初は名うてのカメラマンを前にしておこがましいという感じで、まったくもって自分の映像は使わなかった。が、キレイでスタイリッシュな絵だけでは、何かつまらないなと今回感じはじめ、改めて自分が撮った素材を入れ込んでみた(5d2の絵とREDの絵、皆さん見分けがつくだろうか)。なんというか僕の撮影したものの方が、リアリティと面白さがあるように思えたからだ。それぞれに反応するところが違った。彼の方が流麗な雅語で綴られた叙事詩であるとするならば、僕の絵はなんというかクスっと笑えるような川柳のようなものである。そういうところに惹かれてしまう。文字におけるゴシックと明朝、草書と楷書の使い分けではないが、映像にもそういうような文体やフォントの差異のようなものがあるように思える。大きなカメラだけでは撮れない絵があり、小さいそれの方が物語を駆動させれるということもありうる。だから本作は、格調高い叙事詩と川柳とが入り混じったチャンポン映像のようなものである。

しかし一体全体どうしたら映像というものは「面白く」なるのだろうか。今、そればかりを考えている。それにしか興味がないとすら言える。「物語」というものは何かの課題なり問題が解決される過程のことだと言い切るとして、この「産土」はなにを解決できるのだろうか。少し何かのタメになる、新しい気づきがある、見たことのない風景がある、死んでしまった人たちが身近にいる気がする…。

いや、そんな羅列なんてしなくていい。それぞれに違うことを感じていい。その多様さを生み出すために、「産土」などという古めかしい語をわざわざ引っ張り出してきたのだから。

これは僕自身の物語でもあり、出演されているすべての方々の物語でもあり、見る人々自身の物語でもある。そしてそういう様々な物語が錯綜する只中から「面白さ」を見つけ、それを紡いでいきたいと思っている。

Ben Ruffellと

● 山伏修行の同行取材

出羽三山の表玄関として知られる鶴岡市羽黒町にある手向(とうげ)地区。この庄内平野のはずれの山裾にある、厳粛な雰囲気に充満した古びた町には、幾つもの宿坊(寺院参拝者等用の宿泊施設)が立ち並んでいる。この手向地区の中程に、この物語の主人公である山伏の星野史紘(ほしのふみひろ)さんが第13代当主を務める宿坊、大聖坊(だいしょうぼう)はある。

羽黒山、月山、湯殿山(ゆどのさん)からなる出羽三山は、「西の伊勢参り、東の奥参り」と並び称されるほど、東日本を代表する聖地であり、多くの参拝者が訪れる場所だ。参拝者たちは地域ごとに「講」組織を作っており、それぞれの「講」は、それぞれに特定された宿坊と結ばれている。簡潔に言えば、参拝者を受け入れるのが宿坊という施設の機能である。星野さんの大聖坊も、代々福島県相馬地区の「講」所属の参拝者たちを中心に受け入れてきたと云う。

だが近年は「講」の人々以外に、都市部から自主的に参加者する人たちが急増しているのだという。またその中で女性の参加者が増加しているのだとも。「都会にはない、心のゆとりを求めてくるのではないか」と星野さんは言う。ちなみに近代までは女性の出羽三山への登山や山伏行は禁じられていたのだが、星野さんは「現代は女こそ山伏行をするべし」と豪快に言い放つ。彼が女性にモテモテなのも、ありがたく頷けるところである。

さて、そんな星野さんに向かって若干戸惑いを覚えつつも「山伏ってそもそもなんですか?」とド直球な質問をしてみた。言葉は知ってるけども、実際に何をしてるかどうかはさっぱり分からないからだ。「祈って修行する者のこと」と星野さんはピシャリと答えた。

祈って修行する、そう言われてみると至極明快である。それでもう前を辞しても良いような気すらしてくる。だが僕はインタビューをしているわけだから、そのまま得心してはいけない。一体全体、なんのためにこんなことをするのか? なにか意味があるのか?と矢継ぎ早に質問したくなった。そのまま問いを続けようとすると厳しい目がギロッと飛んでくる。「まず自分で山を歩いてみろ。話はそれからだ」とその目は厳粛に告げている。僕ら現代人は「なに? なに? なに?」ということに常に苛まれており、何にでも意味を求めてしまうものだが、星野さんはそれこそがケシカランのだと言う。「Think yourself」と。いや、「Feel yourself」か。とにかく僕らは用意された白装束にスゴスゴと着替えた。この装束は死装束と一緒だという。なんだかとてつもなく不安になってきた。

星野さんの吹く法螺貝の音とともに修行は始まる。僕らは彼の腰につけた鈴の音に導かれて、ひたすら山を歩いた。これは「とそう行」と呼ばれる。その間彼はほぼ、なにも言わない。怒っているのか、平然としているのか、一切わからない。だから勝手に考えるしかない。ごくごく普通の人たちであるこの修行者たちは、ただ一つの例外を除いて会話することなどの一切を禁じられている。だから星野さんの背中を追いかけながら、黙々と目の前の山道を歩くしかない。

例外とは星野さんが休憩等の指示を出す時で、修行者は「ウケタモー」という一語を大声で返答せねばならないのである。「ウケタモー」とは、「受け給う」のこと。無論、「受け給わない」と拒む選択肢は参加者には与えられてはいない。ただ先達(修験道の道先案内をし、修行作法を指導する長老格の山伏)の指示にどこまでも従い、あなたの指示を私は受け入れます!と、大声で表明しなくてはならないのだ。

ご飯時には仏さんに出すような量の粥と汁と沢庵とを早食い競争のように大急ぎで飲むように食べねばならないし(これも「メシを食え!」みたいな指示があるわけではなく、先達がそうしだすのを見て急いで真似をする)、食後に歯も磨けない(動物は歯を磨かんだろというのがその理由)。ただ眼前を歩き、勤行し、滝に打たれる…つまり祈って修行するのである。

機材を担ぎカメラを構えながらも「ウケタモー」と叫んで白装束の列の中を歩いてみると、上に書いたような幾多の疑問が消え、徐々に頭が空っぽになってくるのがわかる。ファインダー越しに見える星野さんの威厳に満ちた後ろ姿は、「空っぽになってみて、脳みそ以外の回路(野性とでも言うべきか)を自力で動かしてみろ」と語っているようである。

この映画は「藁しべ映画」のようなものだと一番最初の回(リンク)に書いたが、ここに来れたのもマグレのようなもので、当プロジェクトのスタッフの中に、会社を辞め山伏になった先輩を持つ者が偶然いて、そこからの縁でこの修業のことを知ったのであった。だが実際ここに来るまで、撮影が本当にできるかどうかという不安にずっと苛まれていた。一般人参加の山伏修行とはいえ、神事の一つであることには変わりない。本来は撮影を控えねばならないようなものだとも思っていたし、そのように聞き及んでもいた。けども想像に反して、2つの条件とともに撮影許可がおりた。その条件とは、「修行者と同じ修行をすること」と「撮影禁止と言われたらそれを守ること」とであった。

映像で修行を記録撮影したのはあまり前例がないと聞いたので、なにも考えず「やります!」と言って参加してしまったが、なぜ前例がないのか、やってみてはじめて理解できた。つまり(少なくとも取材者にとっては)相当過酷だったのである。初日の羽黒山は414m/2446段の石段があり、月山に至っては、標高1984mという高さまで切り立った岩をよじ登っていかねばならない(途中まではバスだけども)。

結果論だけ先に書いてしまうと、二泊三日の同行撮影を終えた後、ぼくは宿で寝込んでしまった。重たい機材を担いでの山の登り降りを繰り返すという作業が思いの外なまっちょろい自分自身を苛めた。ヤニだらけの肺や、徹夜だらけの不健康な体が悲鳴をあげたのである。僕らはたった三人で来たわけだが、本来だったら相当入念な計画と、十分な人員とが必要だったろう。おまけに持病の痛風を最後の日に発症させてしまい、足を引きずって登山するハメになった。これでは取材もへったくれもなかったわけだが、幸いなことに僕には心強い助っ人がいた。

助っ人とは、今回の招待作家、ニュージーランドからやってきたベン・ラッフェルである。ベンは幾多の国際的CM(NIKE、HP、ヒュンダイ、カシオなど)のDP(撮影監督)をつとめている大物カメラマンなのだが、なんとハリウッド映画でも使われているREDという大型カメラをこの撮影のため持ち込んできた。収録も4Kでするという。このような業務機で撮るのも、4Kというフォーマットを使うのも、僕にとっては初めての経験である。自分だってこの道でやっているという自負があるつもりだったが、彼に比べると素人同然に思えてき、機材や動作の一々にアホ面を浮かべて「ほおお」と感嘆したものである。なんというか、動きという動きのすべてに無理がなく、また意味があるような感じたのだ。上手い書道家の筆運びに、見入ってしまうような気持ちというか。

REDの備品や高価なプライムレンズ群、ありとあらゆる口径のNDフィルター等が収められた大きな機材バッグは、録音と助監督が担当であったアシスタントの川口が主に担当することになった(それゆえスロモメインで撮っていた山中のカットは、ほとんど音の収録ができなかった)。白装束をまとってフンドシに足袋での撮影行脚。石段はどこまでも続き、途中驟雨も振り、キツイ太陽光線に次第に体力は奪われていった。僕はどんどん一行の列から遅れてしまい、重たい鞄を背負った川口は月山の山頂を目前にして足が痙攣して歩けなくなった。

そんな中でも軽快に撮影し回るベンは、プロだというプライドを強烈に持っていた。そしてそのプライドにふさわしいだけの、たしかな撮影技術を見せつけていた。だが道中とても不満そうである。「ウケタモー」状態の僕らが、従順にただ受け給い続けているのが信じられないと休憩中に言い始め、何度も首を傾げだした。そして「俺たちは修行ではなく、撮影のために来たんだろ」と激しく主張した。僕は「いや、修行することが撮影の条件なんだ」と何度も繰り返してなんとか説得を試みる。

初日こそ不承不承足袋を履いていたベンであったが、翌日は堂々とそれを脱いでスニーカーを履いてしまったり、月山の山頂でポカリを飲んでキットカットを食べたり(修行者に出来るのは湧き水を飲むのと差し出される塩を舐めることのみ)、ご飯が足りないとこっそりお代わりしたり(星野さんの奥さんに「ママさ~ん」とお願いした姿が忘れられない)、なぜか蚊の標的になって足中が腫れてしまったり、巨大な撮影データを移動するために買ったハードディスクが安物のため転送スピードが遅く苛立ったり…つまりその都度都度で壮絶な泥喧嘩をしたのであった。もう、こいつと一緒にやるのは無理だと何度もさじを投げかけたが、喧嘩した翌朝に「ソーリーマイル、昨日は言い過ぎたよ」とアメリカのドラマみたいな感じで謝って来るので、不承不承許した。

というか、許すも何も撮影は彼にかかっていたし、僕は途中から自分がCanonの5D2でしょぼいカットを撮るのはいつからかやめていて、ディレクション(という名の荷物持ち)のみに徹していたので、この強烈な個性の男に期待するしかなかったのである。

● 苦しみの果てに辿り着いたもの

しかし、やればなんとかなるものである。僕自身はほとんど役立たずだったものの、とても意外だったが、なんとかなってしまった。いやなに、始めのうちは僕も一行を追い越したり、遠くから撮ったりするために走ったりしていたのであった(その素材は今回の再編集で音の入った貴重なインサート素材になったのだが)。途中からはそんなことは一切できなくなってしまった。2日目の月山は特にずっとヘロヘロのまま山を登った。足を引き摺りながら、疲労困憊になりカメラすら回せなくなり、いつのまにか列から相当遅れてしまっていた。先達の杖の鈴の音も、もうかなり遠くで聴こえるようになっていた。道中ただただ自分の不甲斐なさを見つめるのみである。ああ、俺ってなんてノロマだったんだろう。情けないやつなんだろうと。

追いついては離され、離されては追いつく。一行はあちこちにある小さな祠や仏像の前で祈る。般若心経を唱え、神道式の歌のようなもの(拝詞)を歌う。それらを開始する前に、「先の東日本大震災で亡くなられた人々のためにぃぃぃ」と先達が唱えるのが聴こえる。だが僕は青色吐息であった。まったく、もはやほとんど死んだと同然であるような気がした。自分のことですら精一杯であるのに、こんな状態で人のために祈ることなんて出来るんだろうかと、口では唱和しつつも頭が混乱した。なんとか山頂付近のロッジに遅れて到着して皆と昼食をとる。そこで出されたおにぎりと味噌汁が今までで食べた何よりもうまくかんじた。歩みの再開。僕らはご多分に漏れず直ぐに遅れだす。

しかし、すべてのことに気を回そうとする焦燥は消え、遅れもどうでもよくなり、先達らの歩みに迷惑をかけているという意識も、鈴の音に対するある種の恐怖感も消え、多幸感すら抱き山をおり始めていた。だがもう一行の姿は見えない。僕は泰然自若的にすらなって、ひたすら重い足取りで、眼前に現れては踏みしめる石くれの群れを只、見ていた。なんというか自分の頭の中でこんがらがっている幾多の雑念とむきあっていたのでる。

すると目前に分岐があってどこに行くべきかわからなくなった。流石に青い顔になり路頭に迷いそうになっていると、先達の助手の方がものすごい速さで僕らを迎えにきてくれ、そしてなんと僕と川口の荷物を持ってくれた。「ここの分岐を曲がらなかったら全く迷子になるところだから、迎えに来ました」と彼は言った。その瞬間、僕は気づいたのだ。自分は誰かの助けなしに、なんらやっていけないのだということ。またそれを受容するべきなのだと。自力だけでやってけると思っていたが、俺はなんて今までバカだったんだと。撮影をベンに任せるということもそうだ。あらゆることがそうだ。なんというか自我が溶解したような感じだった。

それから先は下り道だったこともあるが、今までの遅延が嘘のように、駆けるようにして急峻な山を降りていくことができた。不思議なものである。

途中一行が歩みを止める。そこの湧き水を飲めと先達が云う。うまい。とてつもなく、その水はうまい。崖を降りる。いくつもの鉄梯子があり、それを這って降りてゆく。途中僕の歩みがあまりにも危なっかしいと感じたのか、後ろにいた男性が、杖を貸してくれた。もはや拒みはしない。川口の歩みも、安定した。ベンはというと、疲れた顔ひとつしていない。REDを抱え、スリッピーな斜面を撮影しつつ、一行を先取ったり後追いしたりと平然と歩いて行く。彼は言う。「一度撮影に入ったら、なにがあろうと全てを捧げる」と。その言語を裏切らない模範的カメラマンとして彼は働き出していた。

降りに降りて、なんとか平地に辿りついたようだ。そこが三山の残る一つ、湯殿山である。本宮は撮影禁止の聖地である。撮影できないのなら行かないと首を振るベンを待たせ、湯気がモウモウと立ち上る湯殿山の御神体と対面し、みなと共に勤行する。ヌルヌルした温水が溢れ出る奇形岩が、その御神体だ(草間彌生ならば「ファルス」と言うだろう)。勤行後、その岩の上を歩く。そこは裸足でしか歩けない。無数のマメが出来た足が痛む。

その一帯から更に下に降りて行き、白装束を脱ぎ褌一つになる。そこに滝がある。先達は女性陣を引き連れ手前の滝に入り、男性陣は奥の滝に入る。この滝行を、撮影の最も大事なシーンだと考えており、ベンといくつも道すがら打合せをしていた。が、よりによって鞄を滝に入るかなり上の茂みに置いてきてしまった。その中には予備のバッテリーとSSDカードが入っているのだ。もう滝行は始められている。困った。普段なら考えられないことだ。僕はまったくもってアホのトーシロだ。バッテリーランプが点滅する中で固唾をのむ。轟音とともに流れ落ち、皮膚を打ち付ける滝をもろともせず、大声で般若心経を必死に唱える人々の存在が、幾分大きく見える。勤行が終わる。ベンを振り返る。なんとか撮れたという合図をよこす。危ないところであった。

ついでにというか、喜び勇んで、僕も滝に打たれることにした。背中を叩きつける鉄のハンマーのような水に打たれ、呼吸も出来ないような衝撃に頭が真っ白になったが、なんというかこれからカメラマンとして生きていく覚悟を持った気がして清々しかった。道にあがって女性たちの前で褌一丁で着替える僕を見て、「おまえ変わったんじゃないの」と先達は笑った。たしかに、そこには遠慮というものがまったく消失していたように思える。宿坊に戻りまた勤行があり、撮影禁止の秘儀(とんでもない辛く苦しい秘儀)をする。

三日目、羽黒山の上に再度登って行事を終え、宿坊に戻る(映像でも文章でもこの辺の描写が雑ですみません)。僕のライフエナジーはほとんど残ってはいない。行きも帰りもただただキツいこの参道が、どこまでも無限に続くような気がして、段々赤ん坊が生れ出る産道に思えてきた。山は母胎だという先達の言の意味がなんとなく腑に落ちた。石段の先の開けたところを目がけ、すがるような気持ちでビッコを引いて登った。

大聖坊に戻ると、先達が火を焚き出した。参加者は「オギャー」と言いながら走り、その火の上を飛ぶのだという。無論僕もやってみた。「オギャア!」…生まれて死ぬ。死んで生まれる。なんだ山伏修行とは、僕らの生そのものではないか。

●おわりにかえて

今回でひとまずこの連載は終わる。まだまだ未発表のエピソードはたくさんあるので引き続き連載出来る可能性は高いが、一旦の区切りということで、蛇足ながら少々書いておきたいことがある。まず、リビング・レジェンドと呼ぶにふさわしい近畿大名誉教授の民俗学者、野本寛一先生(先生がこれを見られることはないこと承知で)に対する謝辞を述べておきたい。先生の『地霊の復権』という貴重な著書に出会わなければ、「産土」という言葉にたどり着くことも、この映画が完成することもなかった。ぜひ皆さんにもご一読をおすすめする一冊である。そしてここまでの連載に登場して頂いた多くの方々に、改めて御礼を申し上げたい。その中にはもう亡くなられてしまった方も多々おられる。みなさん方が生きられた人生のおかげで、僕ははじめて何かを作ることが出来る。映像作家などというものは、そこに登場する人々なしではなにもできない人種なのだから。どんなに言葉にしても足らないけれども、本当にありがとうございましたと、ここに記しておきます。

*****

補遺1:男性参加者たちは終わった後、字義通りヘロヘロになった感じだった。だが女性参加者たちはむしろとても生き生きしており、「飲みに行こう」みたいなことを言ってる人もいたりして、その違いに凄く驚いた。インタビューでも「全然大変じゃなかった」と言っておられる人もいた。「女は山だ。昔はそもそも強かったので、山に入る必要がなかった。」と星野先達が言うのも頷けるところである。

補遺2:メインのカメラを人に任したのは、初めての経験だった。『産土』でもほとんどのカットを僕が撮っている。そして招待作家には、インサートやインタビュー時のBカメ映像を頼んだりしていた。だがこの山形編に限っては、僕が撮った絵はほとんど使われていない(「序」にあるごとく今回の再編集でかなり追加したけども)。萎縮してしまったこともあるが、「こいつはホンモノやわ」と清々しく降参してしまったこともある。ともかくも、上に上げたような幾多のトラブル源や難題を抱えての撮影であった。だが意外にも気が合うと見えて、ベンとはこの後2013年、2014年のキャラバンでも一緒にやることになる。

補遺3:星野さんはベンをやたら気に入ったようで、「ユーヤマブシ!」とさかんに言っていた。怒られるかとあれほどビクついていたのだが、受け給わないで撮影者に徹するということに対してなんら意に介さなかったようだ。むしろ、それに敬意すら保たれていたようである。僕らの職能の「撮る」ということにこそ、僕らは自分たちの野性を発揮せねばらぬ。つまりあらゆる掟というものに挑んでいかねばならぬということでもある。遵守だけしていては何もできない。要はケース・バイ・ケースといったところだろうが、日本人は得てして従順に過ぎ、流されてしい過ぎる民族であるのだなあということを痛切に感じ、逆説としてだが「受け給わない」ことの大事さをこのことから学んだと思う。

補遺4:先に大聖坊は福島県相馬地区の講を中心に受け入れてきたと書いたが、今回の参加者もその地域の人が多かった。311から間もなかったこともあり、多くの悲嘆にくれる人が実は参加していたのである。僕は無邪気にも福島を離れた人に向いその気持を尋ね、泣かせてしまうというバカなことをしてしまったということをこの場を借りて謝罪したい。その他の参加者の方々も色々な感情を抱えながら山を歩いただろう。上にも書いたが、その想像力がかつての自分には圧倒的に欠けていたのだと思う。

補遺5:山伏には何の意味があるのか。実はインタビューでもそのことを聴いていたのだが、今回も編集で削除した。やはり自分で体感してみなければ分からないという星野さんの哲学に、敬意を評してである。ご興味の方は書籍などあたられたし。

<作品クレジット>
【出演】星野文紘 他(敬称略)【キャラバン隊員】ベン・ラッフェル(ニュージーランド)、川口泰吾、長岡参 【制作】荒川あゆみ 【音楽】主題歌 Antennasia ”Maht o luisa” 【劇中曲提供】 Hidetoshi Koizumi (Hybrid Leisureland)【オープニングアニメーション】DRAWING AND MANUAL【現場コーディネート】加藤丈晴【撮影協力】大聖坊 出羽三山神社【プロデューサー】トム・ヴィンセント【共同監督】ベン・ラッフェル【製作】長岡活動寫眞 / トノループ・ネットワークス / NPO法人グリーンバレー【撮影・編集・監督・ナレーション】長岡参

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