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「あたりまえ」をすると云う、或いは非常識な勇気。


本インタビューが使われている『産土』第2部https://youtu.be/QaAiXlPWrJM?si=fBMkonvYMh3XkYo1


元々、旧柿木村の役場で働かれていた福原圧史さん(S24年4月生れ)。現在は農家をしながら、「NPO法人ゆうきびと」という組織の会長をされている。彼の畑で作業をしている手を止めてもらい話しを伺ったのだが、その風貌からはおよそ行政的佇まいを感じさせない、理知的な瞳がこちらを見つめていた。彼は柿木の大井谷棚田で実験的に行われたトラスト制度/オーナー制度の立ち上げ者として、知る人ぞ知る存在である。
彼は「食品」と「食べ物」は違うという。自分たちは、あたりまえのこととして、ただ「食べ物」を作るだけであると。「食べ物」に農薬がいるのか?元々農薬を使ってきたか?農薬の害はそれを撒く生産者にもたらされるのではないか?農薬のかかっていない「食べ物」それを子供たちに食べさせたいだけだ。その話しの一々に頷く。そして熊や狸の子供が人間の里の近くで生れ育ち、本来の山の奥での野生の暮らしを忘れているという段にきて、自分の両の目から鱗がバリバリと剥がれていくような気がした。今までのキャラバンを通して、ここまで洞察の元に吐かれた言葉を聞いたことがなかった。
彼の取り組みから30年。今や多くの人にその考え方は共有されている。この地の小学校中学校の給食では、70%以上地元の食材の使用という驚異の数値を誇り、かつ多くが理念ベースのみに堕していそうな食育を、実際に郷土愛に繋げるために子供たちに施しているのだから驚きだ。
 
以下、そのインタビューをここに全文掲載することとする。


現金以外、すべては山にある。
参:それではよろしくお願い致します。正直言いましてあまり事前情報がない中で柿木村に来たんですけども、有機農法であるとか、棚田の再生等をされてると伺って参ってきたのですが、福原さんから見て、一言でいうと柿木村はどういう村なのですか?
福原:柿木村は、そうですね、うーんどういう村。…まぁ、静かな村ですが、どちらかというと山が中心ですね。農家というよりは、農林家ですね。農林家でも林家ですね。で、田んぼや畑って言うのは自給的に米や野菜を作って食べるということで、ほとんどその以前に換金されていた物は、林産物つまりシイタケとかワサビ、栗とかですね。それからあとまあ木材ですね。以前は三椏とかもありました。そういう暮らし、そういう村だと思うんですね。山の関係で木材の自由化なんかの影響が多くて、まあ非常に経済的に厳しくなったということはあると思うんです。自由化以前に円高の問題もあって、シイタケが換金できなくなったとか、単価が下がったとかいうことはあると思うんですが、ま、その代わり公共事業が増えてきて、山仕事をしてた人が公共事業に方に回ったとか、そういうことはあると思います。
参:今日も午前中棚田の方に行って来たんですが、福原さんは、あの場所を再生されたのですか?
福原:再生と言うことはないんですが、行政的にですね、まあ、ああして基盤整備というか補助整備事業っていうのがほとんど村の中で済んでしまっていて、大井谷だけ残ってたんですね。そこで地元からの要望が非常に強くて、当然米価が下がる中で機械化して合理的に米を作りたいという事があってですね。それに基づいて色々調査したんですが、中々あの傾斜地である棚田をですね、基盤整備するっていうのは、この山の保全という面でも大変ですし、事業費から見ても相当お金がかかって、地元負担も大変だということで、結果的にはこれはしない方がいいという結論に達してですね。このままの状態で交流が出来たり、活性化して、地域・集落が、維持できるような方法を考えようということで、あそこだけ特殊な形でそういう方向を選んだんですね。
それからああしてオーナー制とかトラスト制度を入れてですね、みなさんの支援のもとに棚田を維持していくという、その苦労を愚痴にして維持するんではなくて、楽しく交流しながら維持しようという・・・結果的にはそれが良かったと思うんですね。で、そのベースにあるのが、有機農業を30年・・・今30数年になりますけども、消費者との交流をしてきて、そういう訓練と言うか経験が続いたことによってですね、言い方は悪いですけど「よそ者」をそんなに意識しないと言うか、むしろ歓迎するようなところがこの村の中にはあって、どなたが来てもですね、閉鎖的ではなくて開放的な部分がね、かえって良かったんだと思うんですね。その土台となっているのは有機農業での都市との交流というか消費者との交流と経験がですね、かなり生きてるんだと思うんですよ。
参:なるほど。
福原:最初ね「オーナー制をしよう」って言っても、地元の人は様子がわからずにですね、なかなか返事がなかったんですね。たまたま、山口県の岩国市の交流のある消費者に「ちょっと棚田で米でも作ってみんか?」って言いましてね。「それはやってみよう」っていうことになって、二家族ほど一年田んぼに入ってもらって、ま、たまたま(その田んぼを)モデル的に貸してもらってですね。そこで一年間、手弁当で消費者が米作りしたんですよ。それを地元の人が見てて「あ、こういうことなんか」と。というこで一気にその翌年はですね、出来たというわけですね。
参:それでイメージが出来るようになったんですね
福原:そうですね。こういうことでやるんかというですね。なかなかいきなりその「オーナー制」とか「トラスト制」って言っても地元はわからんですよね。それが十二、三年前(1999年か2000年)ですかね。
参:その時は福原さんは役場にお勤めだったんですよね?
福原:(村)役場におったんです。
(注:2005年に隣の六日市町と合併して吉賀町に。それ以前は村役場だった。合併後も「柿木村」という名前は残っている。)
参:さきほど、柿木小学校に行きまして、藤井教諭にインタビューさせていただいたんですが、吉賀町でもなかなか完全な地産地消というか地元の野菜だけを使った食育の実践が出来てないと伺ったんですけども、町内でもなぜ柿木村だけ、地場産物の供給率の割合が70%ぐらいっておっしゃっていましたが、そういうことが可能になってるんですかね?(→参照「インタビュー:柿木村の人々1-2 藤井和子教諭」)

福原さんのインタビュー抜粋。https://youtu.be/gE6zqC401Ak?si=YguzfYcY0d0Kgbc_fづ


自給自足の延長としての「たべもの」作り。
福原:それはまあ、戦後の高度成長の中でこの村が村らしく生きるにはですね、昔ながらの自給的な農業、山と共生しながら、当然食料もですけどもエネルギーとなる薪とか炭も利用しながら自給的な暮らしをするという、それこそ楽しいんだということをずっと言っていまして、自分たちで自給する産物ですね…山の産物も、畑の産物も、川の産物も、その「産物=食べ物」をそのまま消費者に供給する。ですから、商品化するっていう、戦後、農業基本法が出来てから(S36 / 1961年)どんどん農産物が「商品化」されたんですね、食品とか商品に。それまでは「食べ物」だったんです。ですから食品とか商品にして、他の産地と競争するんではなくて、あくまで「食べ物」として作って、「食べ物」として消費者に供給すると。
そういうことをずっとやって来ましたんで当然その、米も野菜も味噌も、川の鮎とかそういうものも(給食として)使っていますけども、秋は栗とかシイタケとか、或いは自給的な養鶏というかニワトリももう一回戻そうというので、その頃そういう運動をしたもんですから、卵の養鶏場も学校に入れてるんですね。で牛も一貫生産というか、繁殖から肥育してる農家が近所にあって、繁殖してから二・三産した牛を肥育して肉にすると。いきなりですね、牝牛も肉にするんではなくて、やっぱり牝として生まれたからには次の世代を残しながら食べてもらうというか、牛から言えばですね、そういう肉を学校に供給してる訳ですね。
参:なるほど。
福原:ですから、そういうベースがあって、特別産物を「産地化」というか「特産化」せずに進めてきたことが、供給率が高い要因だと思うんですね。これが何かの産物を「産地化」してですね、トマトの産地とか、メロンの産地とかにしたら、トマトやメロンは供給できてもその他はありませんと。ですから「自給」の延長で供給してる訳ですから、「自給」の延長を子供たちへと供給する訳ですから、子供たちも消費者も、まあ同じということですよね。
で、村の暮らしっていうのは本来、それが最も豊かな暮らし方であって、ないのは現金がないんですけど、現金以外のものはほとんどあると。今はなくても、山にストックしていると。…ですから、その上に現金があったらそれに越したことはないんですが、現金がなくてもですね、ただ、社会的に現金が減って来たりすると、当然注目されますよね。ここでは現金以外のものはある訳ですが、都市では現金が減ってくると何もない訳ですから。まあ段々そういう見直しの時期に来てるかなという気はしますね。
参:そのような活動を行政主導でされたんですか?それとも元々柿木村自体にそういう発想というか伝統があったから出来たんですか?
福原:うーん。日本の村って言うのは、もともとそれですよね。それを政策的に・・・そういう言い方がいいのかどうか分かりませんが潰してきて、ビジネス的というか換金できる仕組みにした訳ですよね。いろんな産物を自給的に作ってたものを淘汰して、トラクターがあるから牛を辞めてとか、卵は買った方が安いからニワトリは辞めようとか、そういう風に全て淘汰していって、何とかギリギリ残ったのは米だけです。その米も、自給率が90%しかなくて輸入してですね、もう少しでTPPとかなると、なくなる可能性がありますよね。それで良しとしてる訳ですよね国は。国としたらそれでいいかもわかりませんけど、村で暮らしてる人はですね、それは何も魅力ない訳なんで。村で暮らす根拠は何かというと、健康的で豊かに暮らそうということですから。米も野菜も作って食べると。で、しかも楽しく交流してというその余剰を消費者に供給しながら交流してですね、なんとか村が維持できればいいと。
ですから、明治22年に柿木の村が出来たとき、人口が2,360なんですが、つい最近(2005年)合併して(村の発足以来)初めて合併したんですが、そのとき(人口が)1,700~800なんですよね。ですから、そんなに減ってないと思う。それはこのバックボーンというか山があって、金がなくても結構豊かに暮らしてたと。で、そういうこれまでの歴史を見ると、村を捨てるんじゃなくて、必ずその歴史は繰り返す訳ですから、ま、一時はマチが栄えても、必ず少子化の問題とか、或いは輸入の問題とか色々あって、経済的に厳しくなってくると。その時のためにも全国の村を維持しておく必要があると思うんですね。
で、それが「自分たちの仕事だ」みたいなある種の啓発をすればいいわけですね。当然その行政・村として、それをやったかとなるとそうじゃないですよね。村は国の政策の中でやる訳ですから。つまり、「減反しなさい」と。田んぼというのは、米を作るために作ってる訳ですが、米以外のものはなかなか作れないですよね。盤ができて、水が溜まるようになっとる訳ですから。それでも、それをしなさいと言われている訳ですから。それを命令で減反に協力するんではなくて、進んで消費者に米と野菜を供給すると。野菜を作るところは、ほとんど山なんであんまりないんで、そこを利用して野菜を作って、その米と野菜を供給しようということになれば、ヨソでは命令的な減反政策であっても、この村は消費者と共生するための土地利用というかですね、そう理解すればそんなにトラブルもないし、ということですね。
参:なるほど。村としてではなく、独自の想いでそれをされていたということですね。


◯ 当たり前の「原則」を守る。
福原:昭和のはじめに全国の村が「農村経済更生計画」というのを作ってるんですね。これも昭和7年ぐらいに作ってます。
その中で村の世界的に(恐慌などで)厳しい時、どうするかということですから、その中にですね、「本来農業は営利を目的とすべきものではないと。生きるための食べ物を作って食べると。それが最も大事なんだ」と書いてあるんです。ですからこのことは、将来に渡って、永遠にというか、将来に渡ってつながる言葉であってですね、そういうことを継承した村っていうのは、それでいいんじゃないかという・・・ことですね。
参:なるほど。完全無農薬というのは、そういう土台があるからこそ出来ることなんですね?
福原:それは、もちろんそれはあると思いますが、戦後の「食べ物」づくり、戦前戦後一緒ですけど、生きるための「食べ物」を作るっていうことですと当然口の中に毒を入れない訳ですから。「食べ物」として作ってた訳ですね。ですから農薬なんて使いません。ありもしなかったと思いますけど。
ところが「商品化」しようということになるとですね、生きるための「食べ物」じゃないんですね、売るための「商品」。それを食べる人は消費者の人なんですが、作る人は生産者です。で、農薬の犠牲になるのはですね、消費者じゃないですよね。使う生産者が犠牲になる訳です。健康に生きるためには、使う生産者が農薬は使わないと。これが「条件」ですよね。消費者のために農薬を使わないとか、そういうことはないんですね。ですから、もう農薬は使わないと。
参:撒いてる時が一番…
福原:当然撒きながら吸ってるのは生産者であって、キャベツとか野菜に農薬が残ってるっていう、それはほんの僅かですよね。一番影響受けるのは生産者ですから。で、僕らは村で健康的で豊かな暮らしをしようっていうことになると、村の生産者がそういうものを拒否しないとですね、健康的で豊かな暮らしはできませんよね。その延長線上に当然消費者の人にもですね、影響がある訳ですから、間接的には影響しますよね。川に流れて、川の魚とか海の魚とか影響して、最終的にはその自分の山の中のですね、生産者の口まで戻ってくる訳ですよね。当然、海の影響された魚がですね、誰か漁師さんがとってきて、トラックで戻ってきて、自分の口に入る訳ですから。それをしないような暮らし方を提案しながら、消費者からの支援をもらい、(山と)一緒に暮らそうというのが、今までやってきたことですね。
参:お聞きしていて、普通に考えて「食品」を管理する側の行政の仕事と、「食べ物」としての或る種村人としてのご自分の立場の両立が難しそうだなと思ったんですが。
福原:いや、難しいんじゃない。当たり前でしょう。当たり前にそういう食べ物を保育園の子供の給食とか、学校の給食とか、或いは消費者の人に食べてもらうと。そのためにここで農業して、村で暮らしてる訳ですから。ただそれだけだと思いますけどね。特別なことしてる訳でもないし。
参:その当たり前、確かにその子供たちのためとか、自分たちのためとか、っていうことが多くのほとんどの日本の地域では出来てない訳ですよね。
福原;出来てないって言うか、行政指導で違う方向行ってる訳ですよね。これはもう、生産者主導じゃないですよね。誰かの主導でそうなったんですよね。それでこう、(後ろの畑を指さして)化学肥料も農薬も全く使ってない訳ですが、本当に何も(農薬を使っている畑と)変わりませんよね。今までの化学肥料使いなさいとか、農薬を…まあ例えばキャベツですと40成分くらいあるんですが、1成分ずつ農薬蒔くと40回ぐらいの農薬は許可されてます。ですからひとつのキャベツを作るのに、種から市場に出すまでに40回ぐらい農薬使う訳ですね。それが消費者の口にいく訳です。全く使ってないのとですね、そんなに遜色ないですね。
参:(畑をみながら)たしかに。
福原:そしたら何のために、農薬はどういうことなのかと。ただ、旬に作るとかですね、出来ない時期に作ろうとすると無理がありますから当然いろんな影響がありますんで、そういう作り方でなかったらですね、ほとんど問題ないですね。

福原:(畑を指さしながら)これ全くねなんにもしてなくて、(虫除けの)ネットもしてないんですよね。
参:へえー!
福原:確かに葉っぱ食ってるとこもありますよ、一株ぐらい。ですが、できるもんでしょ?茄子とかオクラとかいろんなもんがあって、もう刈り込みましたけど。どこにも化学肥料も使ってない。硝酸塩とか窒素過多っていうのは、当然野菜を食べれば生産者に影響する訳ですから、当然消費者も影響しますよね。で生産者の自分の家族のためには、窒素をたくさん使ったものは作らないと。そのまま、消費者に供給すれば、消費者にもいい訳ですよね。ま、ただそれだけのことで、それが当たり前の農業というか、まあ有機農業的に言えば、本来の農業のあり方とか、食べ方とか、村の暮らし方とか、ただそれをやろうというだけで。「本来」の、ということですよね。
いかにも戦後の農業っていうのが大きく変えられて、商品化されて、この山間地で儲からんのなら辞めて町行きなさいと。そして、どっかの会社で働きなさいという政策がずっと続いたわけですから。いや、そうじゃないよと。自分が健康でいるためには、自分で作って食うっていうのが「原則」で、それを続けたいんだという人が一緒になってですね、やろうっていう。まあ、そのことによって、山が維持できたり、里が維持できたりですね、当然川が維持できたり、それが出来る訳ですよね。でも残念ながら山は(木材輸入の)自由化によって山に入る人がいなくなったんで、その分だけ野生の動物が人間の里へ出てきてですね。で山は管理されてなくて、本当にもったいない状況になってますけど、いつかまたこれが必要な時期が来ると思うんですね。まあ、そのときのために、ストックする必要があると。
そのささやかな維持管理を、小林君とか間伐材の維持管理みたいなことをやってますよね(参照:インタビュー小林健吾さん)。それはその換金するための間伐ではなくてですね、ま、将来の子供たちのために山や木を残すためにですね、間伐しながら残してやろうと。ということで自分がお金がほしいからではないですよね。それが農村の暮らし方だと思うんです。「孫の時代」にどうなるかと思っているわけです。常にですね。
80のお爺さんでも元気な人は山へ行って木を植えてた訳です、昔は。80のお爺さんが杉の木植えてですね、その収穫あるかって言うとそれは全くない。むしろその子供もないですよね。孫ぐらいが初めて収穫する。収穫した孫は、お礼にまたそこに植えると。そうするとその孫が収穫するぐらいで。まあ、そういうもんですよね、田舎っていうのは。ただ、それだけのことです。

◯ 都市と村との共生
参:僕らは「森と暮らし」をテーマにして取材をしているのですけが、今までのお話と重複されるところもあるかとは思うのですが、柿木の森というか、山の中で農業しながら暮らすということに対してどうお考えですか?
福原:柿木ですか?これは山に関心を持ちながらここで暮らすって言うのは、本来人間らしい最も良い生き方じゃないですかねぇ。人間っていうのは、そういうもんだと思うんですよ。東京のど真ん中とか、大阪の街の中で、夜と昼が逆転してですね、昼は寝てて夜になったら目を覚ますフクロウみたいな暮らしをするんでなくて、日が暮れたら寝て、夜が明けたら起きて、汗をかくと。「原則」はですね。それが一番と思ってるんですよね。
それはもう、全国の村は共通ですよね、どこでも。ですからそれが少しでも評価されるように、少しでも消費者に評価されて、少しでも支援がもらえるように、その支援っていうのが「オーナー制」であったり「トラスト制」であったり、野菜の提携というようなカタチですよね。ですから売り買いではないっという全く違う視点でないとですね、売ろうと思えば(値段を)叩かれるという当たり前のことなんですね。
高く売ろうと思えば消費者は安く買いたいと言う。ところが一緒に暮らしましょうということだったら、消費者はそんな値段で生活できますかと逆になる訳ですね。そういう支えあうと言うか、それが一番だと思うんですね。当然、山を維持するということは、末端の最も下流の消費者のくらしにすごい影響がある訳ですから、そのことを消費者は理解して山を支える、支援をすると。で、山の人は消費者の暮らしやすいような環境とか食べ物とかを供給しながら共生していくと。
ある意味、そういう方法しか村で生き残る方法はないかもしれないですね。当たり前のことですけど。ここで金儲けしようとかですね、一旗あげようかというそいういうことは出来ない訳です。
参:うーん、なるほど。それがでも、20代、30代の若い人たちに理解してもらうのは結構大変そうですけども。
福原:ああー昔は大変でしたけど、今はむしろ若い人が積極的ですよね。
参:あ、そうですか?
福原:うん、いやそれだけ世の中が変わって、社会不安というか、自分の人生に対する不安がですね、(活動を始めたのが)まだ昭和50年代、1970年~80年ごろですから、非常になんていうか夢があったり、都市に期待があったりとかする時代ですから、そこで若い奴に「ちょっとこい」って言ってもなかなか来てもらえなかったんですけど。金が欲しかったらマチに行けと、命が欲しくて、楽しく暮らそうと思えばここで暮らすことだけど銭がないからって。そういう人しか仲間になれませんでしたけど、今は逆にですね、マチで生まれ育った人が色んな不安を持ってるんじゃないですかねぇ。まあ社会的にも、大きく言えば経済的にも世界の経済が不安定な状況になってるし、そういうことを気にせずに作って食うて楽しく暮らそみたいなとこがあると思うんですよね。
参:そういうところがIターンの増加等に繋がっているということですか。
福原:ああ、そうですね。それがね、案外関東が多いんですよね。関東が多いっていうのは、関東が情報の中心ですから、最も速く情報をキャッチが出来るとこだと思うんです。戦後の高度成長の中で、最も環境破壊や健康破壊をキャッチしたのも関東の消費者ですよね。そういう影響を受けて、有機農業なんかも始まっているわけですから、今度は環境問題は勿論ですが、将来への不安に対する情報の中で若い人がそういう動きをしてるなと、そういう気はしてますよね。小林君らもそうですけど。
参:僕も千葉生まれなんです。
福原:あ、千葉ですか。千葉の方が多いですね。どうしてですかね?大学とかの影響もあるかもわかりませんけど、結構島根県では弥栄村(やさかむら)なんかは千葉大学の学生さんとの交流が多かったり、もう定着しとる人もおりますけど。ま千葉、茨城・・・、埼玉、群馬っていうのはあんまり聞きませんけども、向こうが多いですね。
まあ、有機農業も千葉の三芳村(→リサーチ)とかそういうことを早くからやってるし、埼玉は小川町(→リサーチ)みたいにですね、今でも最もそのなんていうかね、原始的なというか、野菜を新聞紙にくるんで、その野菜を米袋の中につめて、東京のど真ん中配達すると。それで先週分の米袋持って帰るみたいなですね。東京のど真ん中が最もそのゴミの問題とか含めて、そういう運動の原点が逆にあるような気がしますよね。
田舎では有機野菜求めててもですね、ビニールの袋入れてくださいとかですね、ちょっと大きさをそろえてくださいとか、そういう消費者がまだ多いんですけど、それが東京ではそうでないと思うんですね。
参:たしかに、そういうものに飢えていると想いますね。
福原:うん、尤も無関心な人は凄いおる訳ですけど、関心がある人はそこが徹底してるというか。で、そういう10年先、30年先、50年先を見越した動きと言うかそれを、こう動くことによって、今は20代の人がその影響を受ければですね、20代の人が30年先でも50代ですから、僕らの年代にそうなるということですよね。そうなってほしいと。ま、それまで村が保つか保たんかっていうのがありますけどね。あまりにもそういう攻勢が強いというか、国の財政が悪くなればなるほどですね、公共投資が田舎にはせんぞと。どっかの地方都市にまとまって学校も病院もそこに集中さして、人も集中させようみたいな動きがないこともない。こんな山の中住んどるからですね、ここに銭いるんじゃと、道路もなおさないけん、こういうところの人はみんな下流の町に出てこいやみたいな。そこには病院も学校もみんなそろえてあるんで、国も金がかからんと、なりそうですよね?
参:…はあー(嘆息)。

◯熊もイノシシも、都会っ子。
福原:ま、なりそうですが、それに対して熊やイノシシと一緒になって、ちょっと待てと。山のことも考えてくれやみたいに言わないけんと思うんですね。最近、熊が一番よう言うてますけど、やられますよね、どーんとこう、あんまり町いきなり出て行くから。ま、じわじわ言わないけんと思いますけど。
まあ、あの熊の動きとかイノシシの動きを見れば、戦後の山の政策とか里の政策っていうのがよくわかると思うんですね。一斉造林とか、拡大造林とか、本当の豊かな山を一気にお金を目指して、何もかも金ですから、それを目指して一斉造林した影響が出てますよね。もちろん、災害とかそういう面でも出ているわけですけど。
参:熊が里山の方に出てくるっていうのはやはりそういう…。
福原:当然そうですよね。山の奥山にはちゃんと大きな巨木があって、なんとなく自分の命を支えてるような木があって、そこに穴があって、そこにミツバチが飛んできて自分の巣を作ってると。山の中でそういうミツバチを食べたりしながら、あの金太郎の話があるじゃないですか。ああいう世界が山の中にあったと思うんですよ。それがもう造林するために全部切ってしまった訳ですから、そういうものはないですよね。当然実のなる木もないし、他の動物が住処として住めるようなところもないし。
そうすると食物連鎖の中でその影響が出てくる訳ですから、最後に残る熊とかいうのは、もうどうにもならなくなって里に出るしかないと。里へ出ると、僕が大阪や東京行って、「あーネオンがきれいやなぁ」って言って、どっかの居酒屋でも行くんと一緒で、熊もですね、楽しゅうに食えればですね、少々命が危のうても、楽に食える方がいいという、そうなりますよね。これは人間も一緒でですね、マチへ出て、楽しゅう楽に食おうとすると、当然そのあと熊と同じような影響を、人間も受けると思うんですね。それは一緒ですよ。人間も、熊も、イノシシも。
参:はあー、なるほど。
福原:ですから、僕も家のまわり、昔は栗植えてたんですが、熊がね、今年も早くから来たんですよ。ですから、そのまま放ってありますけどね。この十数年ぐらい、毎年熊がまわってくるんですよね。ま、よその栗園行くより、ウチの栗園で遊べやみたいな。柿とかあってですね、それは当然採られてなくなるんですが、今年初めてね、スモモ、それももう30年生ぐらいのスモモなんですが、スモモに熊が来たことはないんですよね。6月下旬から7月頃ですけど。初めて来ましたね。ここまで食いもんがなくなったんかという気はしてますね。今年はないんじゃないですかね。熊が全国的に山に木の実がないっていうんで、熊が出てますけど、ま、これは…人間がしたことですよね。
参:今まで6月ぐらいまでは山に食べ物はあったと?
福原;うーんなにかあったんですね。春先からですね、熊が冬に子育てして、春に子供連れて冬眠から出てきますけど、その頃から人目につくようなところに出ることはほとんどなかったですね。で秋はね当然そうなるんですよ。冬眠から出て熊は交尾して、秋の食べ物によってそれが受胎するというかですね。もし、秋の食べ物がなかったら、自分の体を助けるために流産するんだそうですよね。で、秋にきちっと食えたらですね、流産しなくてすむと。で、冬眠中、まあ2月頃生むわけです。ですから熊の子っていうのは、2ヶ月くらいで生まれますから、パンダでも一緒ですけど、こんな小さいですよね。これは秋の食べ物の関係らしいんで、秋の食べ物をちゃんと食べればちゃんと子孫を残せると。ですから、熊は必死で食べる必要があるんですね。ですから春はそこまでいってなかったと思うんですけど。そのことを人間も考えないけんですよね。と思いますけど、どうですか?
参:この前、山形でマタギの方に取材してきたんですけど、どこも環境が変わってきたっていうことで、自分たちが獣害対策のために熊を撃つということで生計を立てなくてはならないと仰られておりました。
福原:昔はこの村でも熊をひとつ冬に見つけるとですね、冬はほとんど炭を焼くかして暮らしてる訳ですから、炭を仕込んでおって、猟師はみんなで獲るまで熊を追い掛け回して一頭の熊を獲ると。一頭熊を獲るとですね、一冬暮らせると。毛皮と、胆嚢という熊の胆で。山の集落は暮らして、その上に熊の油なんかをとって、火傷なんかをしたときにはそれを使うとか。そういう風に薬効がそれぞれあって、そういう風にやってたそうなんですけどね。サルなんかもですね、追い掛け回してひとつのサルをとって、冬を過ごすと。赤ちゃんが生まれたら、サルの頭の黒焼きですかね(苦笑)。それが産後の肥立ちがええと昔から言われてまして、それを黒焼きしたものを赤ちゃん産んだ人に飲ますとか、どこは何にいいとか色々あって。で、医者まで遠くてですね、車があるわけじゃないんで、動物のいろんなところとか薬草で冬の雪の中での、こう地域医療って言うか、家庭医学みたいなもんですよね。そのために熊やサルっていうのは必須っていうか、とっておく必要があったと。
マムシなんかもそうですよね。あれは焼酎につけて使うとか、そういう自然との関係がすごいあったと思うんですね。今はそのたまたまヘビ見てもどれがマムシか分からん人もおったりすると思う。それはきちっと伝えていかないと、今、最も大事なことは高齢者、おじいさんおばあさんにそういうことを聞いておくっていうことが大事じゃないですかね。そういう利用の仕方から何から。それがまあ山村の暮らし方の意味と思うんですよね
参:この間、山形で日焼けをしたときに、マタギの方から油もらったんですけど、塗ったら驚くぐらいすぐ治りました。
福原:今の馬油みたいなもんですよね。今、馬油は商品化されてどんどん売られてますけど、熊の油売ってるとこないけど、熊の油の方がよう利くと思うんだけどね。
参:本当に結構利いたんで、びっくりしたんですよね。やっぱり「商品」とは違うっていうとこなんでしょうね。
福原:ああ、そうでうね。ですから、熊の胆と言っても、まぁそれはわかりませんけど、ほとんどが牛の胆嚢だとかですね、言われますよね。言われてるっていうか、もう30年も前からそういう風に言われてましたけど、本当の胆嚢は熊じゃなくて、イノシシの胆嚢で十分ですね。そういうもの、とっておけば。
参:はあー。なるほど。お医者さんがいないから、逆にそういうものでなんとかしたっていうところもあるんですね。
福原:当然、草もそうですよ。ドクダミとか、ゲンノショウコとか、色んな薬草的なものもですね。それはまあ東洋医学というか、自然の中で暮らすには必須なんじゃないですかね。いざと言う時には山へ入ればそういうもんがあると。今からやったらこれからマタタビとかですね、そういうものもあるし、フキっていうのは、便所行って尻をふいとったからそれが語源だそうですね、あれ。
参:えそうなんですか?(笑)
福原:だから、そういうもん使ってましたね、紙が。トイレットペーパーがないときは。フキは全国沖縄から北海道まである。北海道のフキ、こんな葉っぱじゃないですか。どこまで本当どうかはわかりませんけども(笑)。そういう薬効のあるものは結構ありますよ。
参:次の世代に必要になるかもしれないと言われてましたけど、今、山も方々で荒れてるじゃないですか。それに関してどう思われますか?
福原:これはね、本当に残念なことですね。で、ここまで山をつぶす気なら国は別な方法でですね、山を管理する必要があると思うんですね。林野庁というか、営林署をつぶすんじゃなくてですね、営林署の職員を増やしてですね、国が管理すると。次の世代のために。民間っていうか、農林家ではもう換金できん訳ですから、しかも、山の体系も計画的にですね、熊やサルが住めるような元に戻す計画をすべきだと思うんですね。たぶん、この2~30年で熊が出てた訳ですが、この熊を山へ返すといったら、そういう計画をして100年ぐらい経たないとですね、山に帰れないと思うんですね。
で、当初は人間で言えば一世代で、僕らの年代のもんが東京や大阪に行ったんと同じようにですね、熊も出てきた訳なんで、追っ払えば山へ戻るんですよ。町で仕事がなかったら、田舎へ戻るんと一緒で。ところがマチで東京で生まれたもんは、ふるさとへはあんまり愛着がないもんで帰る気しません。熊もイノシシもほとんど今、この家の近所で生まれてるんですよね。ですから、山の暮らしを知らんのですよ。帰ることも知りません。そっから返してやることからやらないといけない。それで熊を捕まえて、まあ放獣になってますから、山へ返しますけどね、必ず出てきます。むしろ出てきて被害が大きくなるぐらいですね。それは、山で暮らすこと知らん訳ですから、ちゃんとそこは手をかけてですね、きちっと「100年の大計」で戻してやらんと。無理ですね。ですから、今からは撃たれるばっかりですよ。どんどん町へ出ますから。
参:なるほど(嘆息)熊の山のリテラシーみたいなものが、なくなってるってことですか?
福原:そうです。ですから、人間も一緒ってこと。田舎暮らしがもうわからんのです。田舎暮らしって言って、東京の2代目、3代目の人が田舎へまた帰って来てもですね、どの草が食えてどれが食えんとかですね、どれが薬草でどれが毒草って言ってもわからんですよね。それと同じように、熊もイノシシも一緒なんです。イノシシもこの近所で生まれとるし。ですから、その元から行くっていうことになるんですよ。100年で。それを国は責任持ってやるべきと思いますね。
今、そういう天然資源っていうのは医学的にも世界でそういうもの探し求められてますよね。化学物質ではどうしようもなくなって、アフリカの原生林とか、南米とか、本当の昔、その地域の人たちが利用しとったものをもう一回成分調査してそれを作ろうとしてますよね。それと同じようなことを国をあげてやるべきと思うんですね。もちろん民間でもいいんですけど、民間はやっぱりビジネスですから、そういう意味ではなくて、国は保護を含めてやる必要がある。もう民間ではね、山入れませんよ、なかなか。ただ、それだけのゆとりがある人はいないですから。それが大事と思いますよ。
参:山を自分で手入れすると言っても、もう出来ないですもんね。
福原:僕らの年代はね、子どもの頃から下草刈りとか、間伐したり枝打ちしたり、ずっとしてきたんです。20代、30代その頃までしてきた。ところがその頃に自由化されて山に入らなくなって、ほとんど価値がなくなって山に入らなくなった。この30年ぐらい山に入ってないですね。20代の頃には結構山に入って、休みの日には枝打ちしたり。
愛媛県の久万林業とかあるでしょ?あそこは先進地なんで視察行ってですね枝うちの仕方とか、道具を見せてもらったりして、そういうものを入れてですね、林業研究会みたいなものを20代でそんなんがあって、シイタケを作ると同時に山の針葉樹の管理をやってたんです。ところがその後は全然ダメで。
参:それは自由化によって?
福原:そうですね。僕らぐらいのものは山の木で学校行ったりしとるもんですから、山のありがたみって言うんがようわかっとる。ちょっとこの山を売ったら一年分の学費ぐらい出るんですよ。下宿代とかそういうの含めて、それぐらい価値があった、山に。今は全く・・・。それはそれでいいんだけど、そういう政策なら別な意味で山をきちっとですね、再生して循環できるようにしないと、木が古くなったら萌芽しないですよね、倒れても。ある程度伐って再生しないと。あのナラ木とかクヌギとかそういう木は。伐ることが大事と思う。
参;なんか今の都会の若い人たちは間伐とかすると逆に森林破壊っていうようなイメージを持ってると思うんですけども、それは全然違いますよね。
福原:あー、違いますね。日本の山って言うのは、原生林っていうか、本来のそういうものがないんでみんな人が手をかけてる訳ですから、この辺で言えば木炭ですね。山のてっぺんまで炭を焼いてですね、常に再生している訳です。その中でマツを残すとか、ケヤキは残すとかしてですね、300年生のケヤキとか、150年生のマツとか、用材になるような、あるいは栗とかですね、栗なんかって言うのは大事な木ですから、ほとんど田舎でも地覆(家の入口の敷居のこと)とか、柱とか栗を使ってますから。そういう木はその中で残していった訳ですね。
今はもう全然関係ないですね。一斉に伐って植林して、それが全く換金できん訳ですから。で、荒れ放題。山の中、河原みたいになってますね、草も生えないし。山が河原になったら結局雨が降ったら土が流れますから、それが川の岩についてですね、せっかく鮎のコケが土ゴケですから鮎が食わんで、鮎も減ってくると。もう悪循環ですね。きれいなコケが出来れば当然鮎も上がってくる訳ですね。自然は山の熊、川の鮎やサケ、マスとかですね、一緒と思いますよ。そういうことを忘れずに生きるということは人間としても大事なんじゃないですかね。
参:素晴らしいお話、ありがとうございました。
福原:いや、素晴らしい話じゃない(笑)普通の話なんよ。(笑)
参:知らないですからねぇ、僕も。フクロウみたいな生活してましたから。
福原:学校教育が悪いんじゃ、ほんと。そういう教育せんからねぇ。学校教育は四季を通じて自然と共に遊べ!みたいな教育せにゃいけんのですよね。そうすると勉強もすると思うんじゃけどねぇ。僕らのこどもの頃はねぇ、結構利口な子もおったけど、天気がいい日に家の中おると「お前ら何考えとるんか、外へ出せぇ!」って親から怒られましたからねぇ。今なら逆でしょう?どこ行くんか?勉強せぇ、と。
外で遊びながら何かに好奇心、興味を持ってですねぇ、それがまあ理科とか数学とかいろんなことへと繋がって行って、その気になってやると。ですから、特別勉強せんでも結構成績がええとか、そんなんがおる訳ですよ。一緒に遊んどるのに、あいつはいっつも点数がええ、それは自然の中で学んだとこで、記憶術みたいなあれでしょうね。関連していくからさっささっさ出来るんでしょうね。わざわざテストのための記憶じゃない。
参:ありがとうございました。

(終了)

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