見出し画像

【短編小説】Read me, Decode me

 高校の新聞部を舞台にしたラブコメ風。

---------------------------------------

「佐々木。おまえの原稿、直し入れといたから。明日の昼までに第二稿あげてくれ」

 新聞部長の南海(みなみ)透馬(とうま)は、いつでも単刀直入だ。

 後輩だろうが女子だろうが、容赦はない。後輩かつ女子である真帆(まほ)に容赦がないのだから、間違いない。

「えぇぇ、明日の昼ですかあ? せめて放課後にしてくれてもよくないですか」

「アホ、学校来たらずっと授業で書けねんだから、昼も放課後も大差ないだろうが。今晩書くんだよ。朝イチと言わない俺の配慮がわからんのか」

「押しつけがましい! それって暗に、朝急がなくていいから今晩夜更かしして書けって言ってますよね、そういう意味の配慮ですよね」

 いかがか、この気の利いた合いの手、お笑い芸人並みのムードメイク。南海は決して悟ることはなかろうが、彼が後輩に嫌われないでガミガミやっていられるのはこうして真帆が盾突いてあげているおかげなのだ。南海が言ったことを曲げることなどまずないとわかっていて、それでもダメ元でごねるこの強靭な精神でもって、真帆はこの役目をこなしている。

「さすが佐々木。うるさいけど物分かりがよろしい。じゃ、明日の昼休みな」

 と、南海は勝ち誇った笑みで原稿を差し出す。

「悪口言いながらいいかげんに褒めないでくれます? 了解してませんよ、ちょっと!」

「わめくヒマあんならさっさと帰れ。部室閉めるぞ」

 この人、笑顔の塗装が甘すぎる。

 真帆の鼻先で原稿をはためかせて追っ払う、この目つきの悪いコワモテこそ、わが校の伝統ある学校新聞『青城(せいじょう)』鬼の編集長、南海透馬。

 幸か不幸か、真帆が高校に入学してからこの半年、いちばんお世話になっている先輩である。


 返された原稿をぱっと見て、南海の指摘が書かれた青い文字がたくさん目につく。何が書かれているのか、それを見るのはとても怖いけれど、その反面とても気になる。でもやっぱり怖いから、受け取った原稿をすぐにリュックにしまって部室を出た。家に帰るまでは見るもんかと心に決める。とりあえず下校の間だけは原稿からも先輩からも逃避してやる。

 学校を出てから電車の駅までは、大通りを歩いて十分ほど。十月も半ばを過ぎて、制服のブレザーだけでは夜は少し肌寒い。

 学校の前の信号につかまってしまい、恨みがましく校舎を振り返る。電灯がついているのがどの部屋なのかはだいたいその位置でわかる。四階の国語科職員室、二階の英語科職員室と生徒会室。

 三階の新聞部の部室は、まだ灯りがついていた。

 ――何よ、南海先輩、まだいるじゃん。

 南海以外に残っていた部員は真帆と一緒に部室を出たから、今残っているのは南海ひとりのはずである。

 部室閉めるぞって言ったくせに、あんなのやっぱりただの売り言葉に買い言葉。自分はまだ残っているじゃないか。真帆がうるさいからあんなふうに言って追い払ったに違いなかった。

 南海はいつも、真帆の原稿に難癖をつけてくる。誤字訂正を抜きにしても、一回で内容にオーケーを出してくれたことはない。いや、二回めで済んだこともない。

 真帆に言わせれば、南海は疑いなく過剰な段取り魔だ。予定や計画が大好きで、事細かな期限を決めては、あれをやれこれをやれ、やらなきゃ怒る、やったらやったできついダメ出し。南海は進捗管理以前に、書き物のセンスもずば抜けているのだった。

 厳しいのは真帆に対してだけではない。南海は、真帆以外の部員にも公平に厳しい。

 ただ、この厳しさが『青城』の出来に直結しているのは真帆も認めるところである。部員が決して多くはない新聞部が、試験や学校行事の合間を縫って定期的に新聞を発行できているのは、南海の管理能力のおかげに他ならない。部長として部内をまとめあげること以上に、編集長としてひとつの読み物をまとめあげることのほうが、何倍も難しいに決まっている。

 新聞部が発行する『青城』は、県下で最も古くからある高校新聞として名高く、わが校の伝統ある名物のひとつと言っていいものだ。過去、幾度も高校新聞コンクール入賞を果たしてきた。

 南海はこの伝統に恥じないよう、近年は学校行事の実録や生徒の投書で埋めていた紙面の一部を、きっちり連載化して部員の活躍の場を創出した。原稿執筆に時間のかかるアンケート企画なんかを載せられるようになったのは、南海が編集長になってからのことだ。

 真帆は、同じ高校を卒業した姉が持ち帰って来ていた『青城』を、中学の時から読んでいる。今より部員の連載枠は少なかったけれど、学校行事のたびに企画・運営にかかわった生徒会や実行委員の生徒にスポットを当てたインタビューやルポが載っているのがおもしろかった。そして何より、代々編集長が担当する一面下段のコラムが、本物の新聞みたいで格好よかった。これが書きたい、と思った。

 ――次の編集長の座は、あたしがもらう。

 だから真帆は、あえて南海に突っかかる。鬼の編集長だって、遠慮なくものが言える図太い後輩の方がかわいいに決まっている。代替わりの年度末まで、あと約半年。信頼を勝ち取るとともに技を盗んでやる。ワンマン社長ならぬワンマン部長の南海が直接真帆を次期部長に推せば、逆らえる部員などいるはずがない。


 その日の夜、真帆はリビングにある家族共用のパソコンを占領して、南海の指示どおり原稿を直していった。

 なんとか原稿を仕上げてから眠りについたが、翌朝、いつもより早く目が覚めた。

 起き上がって、口の中に違和感を覚える。口の内側、舌や歯が当たってどうも痛い。口を思いきりひらいて鏡に映すと、白い口内炎ができていた。気づいてからなおさら舌が当たってしみる。

 いつもの惰性で朝食にはトーストを焼き、牛乳たっぷりのコーヒーで流し込むが、耳は残した。とても痛くて食べられない。物を噛むと、口の中のものがどうしても患部に当たる。

 昼休みに部室に行くと、お昼を食べながら作業している部員が何人かいた。真帆が原稿を印刷して渡すと、南海は愛用の青のボールペン片手に読み始めた。真帆は口内を労わって、弁当の食べられそうなものだけをゆっくり食べた。途中、部員の加藤が土産だと言ってせんべいを配ってくれたが、とても食べられる口内環境ではなかったので弁当のトートバッグにしまった。

 真帆の原稿は、放課後に微調整を経て南海から了承され、顧問まであがった。今回はこれまででも類を見ないほどスムーズにいった。昨晩粘った甲斐があるというものだ。

 今月号で、真帆は印刷の発注当番に当たっている。校了したものから順次原稿データの処理をしていると、しばらく姿を見なかった南海が部室に戻り、まっすぐ真帆のところにやってきた。

「おい、佐々木」

「はあい、なんですかあ?」

 今度は校正作業の監視かと思って振り返ると、南海は外に出ていたらしくブレザーを着ていて、目の前に真っ白いものを差し出した。コンビニの袋である。

「腹減ってたらお湯沸かして食べな。これなら食べられそうか?」

 南海が目線で示したビニール袋の中身は、インスタントのコーンポタージュだった。

 飲み物でもお菓子でもない差し入れに、真帆は驚きと戸惑いを隠せない。

「なんで?」

「佐々木、口内炎でもできてんだろ、どうせ」

 こともなげな南海の返事が、真帆をさらに驚かせた。

「うっそ! なんでわかったんですか?」

 今日学校来てから、真帆は誰にも言っていないのに。

「今日やけに静かだから。べつに声はおかしくないし、風邪ではなさそうだ。弁当のろのろ食べてたのと、決定打は昼に加藤がくれたせんべいかな。その場で食べなかったろ、佐々木、せんべい好きなのにさ。それで、痛いのは喉じゃなく口の中なんじゃないかと踏んだ。どう、当たり?」

 南海が言ったことはひとつ残らず正しかったので、真帆はせんべいのくだりからもう何度も頷いていた。

 だから真帆が当たりだと明言するまでもなく、他の部員の方が口々に反応しだした。先陣を切ってみんなの内心を代弁したのは、昼休みにせんべいを配った加藤だった。

「すご! 南海さん、佐々木のことめちゃくちゃよく見てるじゃないですか!」

「というか、おまえらも変だと思わなかった?」

「確かに言われてみれば真帆ちゃん、今日あんまりしゃべってないような」

 南海はけろっとした顔で受け流し、副部長の理子(さとこ)が少し和らげてくれるものの、最初の加藤の声が無駄に大きかったのが悪い。他の部員に冷やかしが伝染していくのが目に見えるようだった。

「普段、伊達に佐々木ちゃんにばっかりきつく当たってるんじゃないんだねぇ」

「いやいや、うちらにも当たりきつくね?」

「でもやることが男前だわ」

「ほんと。こんなのされたら好きになっちゃいますよ。な、佐々木!」

 ついに、同じ一年の安川(やすかわ)が、真帆にパスを出した。どうして他の文化部と違ってこの部の男子は騒がしいやつばっかりなのか。

 いつもなら安川はどちらかというと真帆のにぎやかし仲間みたいなものなのだが、今はなかなか同じところまでテンションが上がらない。これは口内炎のせいだと言い聞かせ、真帆は安川の無茶振りを受け止めた。

「あはは、ほんとですよ。もう、びっくりさせないでください。ありがたくいただきまーす!」

 お湯入れてこよ、と真帆はビニール袋を指に引っかけ、ローファーの底を軽快に鳴らして部室を出た。


 ――もう、あの人、バカなんじゃないの!?

 部室のある三階から給湯室のある二階へ階段を下りながら、真帆は心の中で叫んだ。

 みんながいるところで、あんなふうに真帆にだけ差し入れして、しかもなんちゃって推理ショー付きで「口内炎だろ、これなら食べられるか」なんて、冷やかされるのは目に見えている。

 全部パーじゃないか。なんで自らキャラ崩壊してんの。せっかく真帆がこれまで、厳しい先輩とそれに盾突く後輩という、南海が冷やかされないで済む構図を守ってあげていたのに。南海が手加減なく鬼の編集長をやっても、他の後輩に嫌われたり陰口叩かれたりしないように、南海の強面キャラを冗談めかしてからっと笑い飛ばしてやっていたのに。

 たぶんそれとは別に、腹立たしいのは、みんなの冷やかしている間、顔色ひとつ変えないで、真帆の反応など気にならないみたいに真帆には一瞥もくれなかった、南海の態度。それがなぜこんなにもやもやするのか、真帆自身、はっきりしなかった。

 電気ポットにやかんからお湯を足そうと、ポットのふたを開けた時、廊下を行く足音がした。通り過ぎるだろうと思ったら近くで止まったので、誰が何の用かと視線を向ければ、そこにいたのは南海だった。

 驚いた真帆がびくっとした拍子に、やかんの中で水が大きく揺れた。その力に腕が引っ張られ、こぼすまいととっさに流し台に乗せると、思いのほか派手に音が反響した。

「何してんだよ」

 ドアのない給湯室に入ってきた呆れ顔の南海が、近寄って真帆を覗きこんだ。

 なぜだか自分でもわからないまま、真帆はぱっと顔を背けてしまった。

「なっ、なんでもないですっ、先輩が急に現れるからびっくりしただけ」

「入れてやるから貸せ」

「いいです、自分でできますから」

 南海の「貸せ」はいつもの厳しい調子とはまったく違っていたが、真帆はいつものノリであしらってしまう。

「あのな、他意のない親切なんだけど」

「そんな怖い顔してるのに?」

「この顔はもともとだ。って、誰も見てないのに吹っかけんな」

「うわ、先輩、今のノリツッコミ?」

「しつこいぞ、佐々木」

 そう言って南海は、やかんの取っ手に置かれていた真帆の手を、ごくごく軽い力ではたき落とし、やかんを取った。

 真帆は両手で肩のあたりまでやかんを持ち上げないといけなかったのに、南海は余裕のある高さから片手で軽々やってしまう。

 この人こんなに身長高かったんだっけと思いつつ、真帆は灰色のブレザーからのぞく南海の手首のあたりをぼんやり見つめていた。

「発注作業、今回は安川だけでやってもらってもいいんだぞ。口、痛かったら」

「口内炎くらいでそんな。大したことないですよ」

「そのものだけじゃなくてさ。口内炎できるってことは、疲れてるってことだろ。おまえ今回、脱稿一番乗りだよ。初稿も早かったし、無理してたんじゃないか」

「なんか先輩、今日ちょっとおかしいですよ。変に優しい」

「失礼だな、俺はおかしくねぇよ。おまえが口痛くて調子でないだけ」

「だとしても、何も言わなきゃいいでしょう」

 思わず鋭い声音になってしまい、真帆ははっとしたが、南海は平然としていた。

「ああ、やっぱりさっきの、いやだった? 加藤たち、冷やかし入ってたからな。あいつら、佐々木ならいつもみたいに一緒になって笑ってくれると思ったんだよ。目立たないように渡せばよかったな、すまん。佐々木、機嫌損ねたかなって、実はちょっと引っかかってさ、こうして偵察に来てみたんだけど」

「”偵察”ですか」

「冗談。謝りに来た。ごめんな」

「いいです、そんな。謝られるようなことじゃないし、全然。あたしは、その、ちょっとびっくりしてただけなんで」

 肝心なところで茶化しきれず、不覚にも心臓を飛び出しそうなほどドキドキさせて誰よりも驚いてしまった自分が、悔しかった。そして、その驚きの陰でひそかに喜んでいる自分を見つけたことが、恥ずかしかった。今だって、南海が真帆の機嫌を窺うためだけにわざわざ給湯室に下りてきたのだと知って、胸のあたりがざわついている。

「ちょっと気を利かせようとしたくらいで、驚かなくてもいいだろ。いつもそんなに怖いか、俺」

「じゃなくて、”どう、当たり?”のときのドヤ顔が。どこの探偵気取りかと思いましたよ」

「は、そこかよ! つうか、そんな大げさな言い方してねぇよ!」

 南海がまんまと挑発に乗って言い返してくる。ちょっとからかいすぎてしまった。なんでびっくりしたなんて、真顔で言えるわけがなくて、つい。

「でもあたし、ほんとにすごいと思ったから。普段から文章読まれてると、体調まで読まれちゃうんですね。怖い人だあ、先輩は」

「佐々木は文章も性格もわかりやすい方だと思うけどね、俺は。俺の小言もそこそこ真に受けてよく聞いてくれる」

「真に受けるに、決まってます」

 でなきゃいつまでたっても原稿終わらないでしょ。口ではそう言っておいたが、真帆の本音は違った。

 真に受けるのは、南海の指摘が正しいと思うからだ。

 南海が指摘してくるのは、真帆が自分でもうすうす後ろめたく思っていた、なんとなく書き逃げてしまった部分であることが多い。だからこそ南海の指摘は耳が痛い。最近でこそ、付箋を貼られた原稿を見ながらひとりで直しているが、最初の頃は本当に面と向かって厳しい指摘をいくつも受けた。

 数か月前、今よりも多く口頭で修正の指示を受けていた頃、南海は言っていた。他人の書いた記事を直すのは、出来の悪い現代文の問題を解いている気分なのだと。出題に使われる原典があまりに拙いから、設問を南海が自分で作って解く。一読して意味の分からない箇所に傍線を引き、「傍線部について筆者の意図を述べよ」と問う形式。その解答を、小言として伝えているそうである。試験に臨むのと同じように真剣に読んではいるが、南海の解答だって完璧ではない。どんな設問がついたとしても、原典は筆者のものでなくてはならない。だから最後まで作文は自分でやれと、言われた。

 実際、南海は毎号すべての記事をチェックしているが、担当部員の文章を、たとえ一段落でも丸々書き換えるような修文はしない。必ず書いた本人の表現を生かしてくれる。その分、初稿で伝わらなかった部分については修正段階で新たな言葉を自身で見つけなくてはならない手間はあるが、南海の校正を経て完成した時も、原稿は変わらず自身の原稿のままである。南海の作文と添削の能力はこの進学校においても卓抜しているに違いないが、学校新聞『青城』の紙面が南海の表現に染め上げられてしまうことは決してないのだった。

 そのことは、真帆以外の部員だって、よくわかっている。

 南海に盾突くのは部内の雰囲気づくりだなどと真帆は自分に言い聞かせているが、南海の鬼編集長キャラを茶化してバランスを取る役目なんて、本当は必要ないのである。新聞部の部員たちは誰も、南海を嫌ってなどいない。南海が冗談や冷やかしに耐えうる、ユーモアのある一面があることをちゃんと知っている。そうでなければ、先ほど加藤が遠慮なく声をあげ、他の部員がはしゃぐことはなかっただろう。

 南海は確かに厳しい。冗談めかして人をたしなめられるような器用な人ではないし、するりと人の核心に踏み込んでしまえる人懐こさや、何を言っても許される天然の気質は持ち合わせていない。それにもかかわらずこの人は、自分が嫌われるリスクを取って、茶化さずに言葉をくれる。南海がどれだけ他人をよく見ているか、他人に嫌われる覚悟で厳しく接することがどれだけ難しいか、それがわかるからこそ、みんな南海に一目置いている。

 真帆が南海に歯向かいながらも懸命に記事に取り組むのは、伝統ある学校新聞の編集長になって一面にコラムを寄稿する栄誉を得たいがためだけではない。もっと単純な理由がひとつある。

 南海に、認められたい。

 手書きの青い文字を見るたび、この人はどうしてこうも鋭いんだろうと不思議で、悔しさでいっぱいになる。自分の拙い文章から、自分の気持ちまで透けて見えているような気がして、体じゅう、そわそわむずむずする。文章を超えて、書き手である真帆そのものを見てくれているんじゃないかと、浮わついた錯覚に陥りそうになる。

 自分を見てほしい。自分自身でさえ知らない自分を発見するのは、どうせなら南海がいい。

 これにはさすがの南海も、気づきはしないだろう。

「よし、沸いたな」

 ポットの表示が切り替わったのを見て、南海はおもむろに頭上の戸棚を開けはじめる。取り出したのはインスタントコーヒーの袋とマグカップ。どう見ても、生徒がこんなところに常備していてはおかしな私物である。

「何してるんですか」

「見たらわかるだろ、コーヒーでも飲もうかと」

「なんでそんなとこからコーヒーが出てくるのか聞いてるんです」

 なんだか、ボケとツッコミが逆転しているような。南海の横顔は、よく見ればうっすら笑っている。

「生徒会本部役員の特権なんだってよ。この階、生徒会室あるだろ。去年の今頃かな、生徒会選挙の記事書いてる時に教えてもらってさ。会長がいいよって言うんで、たまに使ってんだよ。このマグカップは県の文化祭の景品でもらったんだったかな」

「うわ、南海先輩が悪いことしてる。意外」

「悪いことって。まあ、めんどくせぇから、他のやつらには内緒な」

 ”内緒”なんて、この人案外かわいい言葉を使うものだと真帆が内心ひそかに笑っていると、南海は真帆の手から黙ってコーンポタージュのカップを取り上げて、ポットからお湯を注いだ。熱いから、と手渡さずに台の上に置いて返してくれた。

「ありがとうございます。これ、気を利かせてわざわざ買ってきてくれて。コーンポタージュ好きだし、お腹もすいてました」

 せっかく素直に礼を言ったのに、南海はまるで興味もない様子、返事もしないで熱心にマグカップの中をかき混ぜている。万に一つ、照れ隠しのように見えなくもないかと思ったが、そもそも照れさせるほど大げさに礼を言ったわけでもなし、真帆の気のせいだろう。

「俺、ここで飲んでから戻るけど、佐々木、どうする」

「あたしも、ここで食べていっていいですか」

「好きにしたら。けど、また冷やかされるかもな」

 まだ真帆の顔色を窺っているような、慎重な口ぶり。確かにふたり連れだって部室に戻れば、部員たちは勝手な憶測でまた騒ぐかもしれない。

「そんなのべつにいいんですよ。あたしは先輩が珍しく気遣ってくれたからびっくりしてただけです。いやなことなんて何もない」

 このくらいはっきり言えば、あんな冷やかしのために南海が謝ることなんてないのだと、伝わっただろうか。真帆はささやかな期待を込めて目線を上げるが、南海はマグカップに隠した口元から「へえ」と生返事しただけだった。

 この人がこれだけ、冷やかしなんてなんのその、という態度なのに、自分だけ心臓をバクバクさせていることこそが、癪だったのである。真帆はずっと、南海に盾突いて掛け合いをやってきた。それに多少の冷やかしが加わるくらい、なんてことはないはずだ。南海に対して日々必要のない反抗を繰り返すことは、もはや真帆の楽しみですらあるのだから。

 真帆は南海を見上げ、あたしにはあなたの怖い顔も言葉も効きませんよと言わんばかりの不遜な笑みを浮かべた。

「先輩はもっとみんなにいじられたらいいと思いますよ」

「どういう意味だ」

「だって顔怖いから。でも冷やかしには、さっきみたいに堂々としててくださいね。あたしもそうしてますから」

「……謝り損だったか」

 南海はすっかりデフォルトの強面に戻って、熱い痛いと騒ぎつつポタージュを口に運ぶ真帆のことをうるさげに睨みながらも、ゆっくりゆっくり、冷めるまでコーヒーをすすっていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?