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アパートメント紀行(9)

リスボン #2


 このホテルのデザインには本当に感嘆する。ロビーの脇のレストランで朝食を食べながら、ホテルのインテリアを隅々まで観察する。黒と茶が基調の落ち着いたデザインに、少しオリエンタルな要素の入った家具が配置されている。
 ロビーの中央にゴージャスに生けられている花が、全方向どこから見てもうっとりするほどバランス良く飾られていて、以前、華道を習っていた時に、あなたの花はどっちが正面なの? とよく怒られていたことを思い出す。西洋のフラワーアレンジメントと違って、日本の華道には裏表があったのだ。

 朝食は、素晴らしく美味しくておしゃれなブッフェだったけれど、毎日ここで食べていると破産する。レストランからロビーを挟んで向こうには、高級そうなバーが見えていて、入ってみたいと思ったけれど、私のような女が一人で入るには敷居が高かった。

 勘定書に部屋の番号とサインを書き、その上にチップを置いて、ロビーを通り抜けて外の空気を吸いに行く。エントランスを出たところに喫煙所があって、なにやら愉快そうにスモーカーたちが談笑しているのを見て、私も久しぶりに煙草を吸ってみたくなる。ロビーの奥に売店があったのを思い出して煙草を買いに行くと、知らない名前の煙草ばかりで読み方もわからなかったので、唯一知っているマルボロを買う。日本円で五百円くらい。イギリスのパブで見かけた煙草が九百円くらいだったのを思うと随分安い。

 喫煙所に行き、マルボロの封を開け、ライターが見つからない演技をすると、ブロンドの素敵なお姉さんが、ハイ、とライターを貸してくれる。それからは喫煙者同士の独特の連帯感に包まれて、どこから来たの? から始まる世間話に興じる。北欧や北米から来ている見知らぬ同士が、リスボンの暖かい午前の空気と煙草の煙を吸いながら、のんびりとうつくしい街を見下ろしている。

 今日はどこへ行く予定なの? ブロンドの女性に聞かれたので、テージョ川の方まで歩いてみようと思っているというと、川の手前に美味しいサーディンを食べさせてくれる店がいっぱいあるわよと教えてくれる。
 あなたは? 女性に尋ねると、市内観光のバスに乗ってベレン地区まで行く予定よという。ホテルの前の公園の下方を指差し、すぐそこに観光バスツアーの発着所があるのよ、乗り降り自由だし、どこへでも行けるから便利よ、と教えてくれた。
 喫煙所のメンバーは次々と入れ替わり、たくさんの笑顔に挨拶する。煙草は身体に悪いのかも知れないけれど、喫煙所の連帯感は好きだ。

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 部屋へ戻り、手持ちの服の中で一番明るい色の服を着て、素足にサンダルを履いて出かける。公園に入ると、昨夕は閉まっていた本の小屋が全部開いていた。
 それぞれの店が工夫を凝らした展示方法で本を並べていて、ぎっしりと詰め込まれた大量の本の重さで傾きそうになっている店や、高価そうな本を少しだけ絵画のように飾っているギャラリーのような店など、様々なタイプの小屋があり、ポルトガル語が全く分からない私でも、思わず本を手に取りたくなるほど魅力的な本屋がずらりと並んでいる。
 新刊本から古本まであるようで、絵本の店の前には小さな遊具もあって、子供たちが楽しそうに遊んでいる。チュロスの屋台から甘い匂いが流れる中、人々がゆったりと本を眺めながら歩いていて、公園は書店街になっている。目的がない日にゆっくり見学しようと思いながら、私は坂を下った。

 ポンパル侯爵広場に出ると、赤い二階建ての観光ツアーバスがたくさん停まっていた。インフォメーションに寄ってコース別の時刻表をもらい、地下鉄の入り口をチェックしながらバス発着所を通り越し、リベルダーデ大通りに出る。リスボンのシャンゼリゼ通りと呼ばれているリベルダーデ大通りは、ずっと石畳の坂道。
 コルクソールのサンダルを素足に履いてきたことを早々に後悔する。素足にサンダルの季節になると、大抵しばらくは靴擦れに悩まされる。それは毎年のことなのに毎年うっかり忘れてしまう恒例行事だけれど、今年の初サンダルは、こんな石畳の坂道。靴擦れするのは時間の問題だ。青々と茂るプラタナスの陰になった歩道を歩きながら、靴屋ばかりを覗いてしまう。今日から六月、バーゲンの季節だ。

 リスボンのシャンゼリゼ通りを下っていると、しばらくは高級なすっきりとしたお店ばかりだったけれど、十五分ほど下った辺りから、値段も手頃なごちゃごちゃとしたお店が目立つようになってきた。ロシオ駅を通り過ぎ、ロシオ広場に寄り道すると、広場の周りにカフェがたくさんあったので、黄色いテーブルクロスが印象的なカフェに寄り、ポルトワインを注文し、バッグから絆創膏を取り出して、靴擦れ寸前の足に貼る。

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 もう坂道ではない通りをさらに南へ下ると、テージョ川に行き当たる。事前に地図を見ていなかったら絶対に海だと信じ込むほど大きな川で、薄着の若者たちがごろごろと川辺に寝転んでいる様は、万国共通、夏の水辺の風景だ。砂浜の川辺で少し休憩し、たおやかな川の流れを見つめる。

 むき出しの腕が、太陽の光を浴びてちりちりと痛くなってきたので、賑やかな通りに戻り、涼を求めてブティックに入る。安くなっている夏服が嬉しくて、気がついたら両手に抱えきれないほどの買い物をしていた。暑さに参りながらふらふらと歩いていると、メニューを手にしたレストランのウェイトレスたちに次々に呼び止められる。
 
 お腹も空いてきたことだし、一番親切そうなウェイトレスのいる店に入る。ここら辺り一帯が、観光客相手の少し値段が高めのレストラン街だとガイドブックで読んではいたけれど、私は観光客だからしょうがない。

 メニューには全部写真と英語がついていたので、悩むことなくイワシの塩焼きとビールを頼む。ビールを飲んでいると、イワシを焼く匂いが漂ってきて、日本の居酒屋にいるような気分になる。しばらく待って出てきたお皿には、大きなイワシが四尾と、ふかしたジャガイモが丸のまま二個、それからレタスとオリーブのサラダが乗っていた。
 ウェイトレスが、これを好きにかけてねと、オリーブオイルとバルサミコ酢をテーブルにどんと瓶ごと置いていく。

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 いただきますと、まずはそのまま何もかけずに食べてみる。ああ、懐かしい味がする。これはごはんが欲しくなる。近くにいたウェイトレスに、ライスはありますかと聞くと、オッケーと笑い、すぐにタイ米を持ってきてくれた。
 ごはんはぽこんとプリン型に固められてお皿に乗っていて、ごはんの上には大きなオリーブが一つ。心の中で、わあい、イワシの塩焼き定食だ、と大喜びで食べていると、笑顔で寄ってきたウェイトレスが美味しい? と聞く。すごく美味しい。出来れば箸で食べたかったけれど、さらに醤油も欲しかったけれど、そんなことは帰国したら好きなだけ出来るのだから、リスボンではオリーブオイルとバルサミコ酢をかけてゆっくりと、ナイフとフォークでイワシの塩焼き定食を食べる。

 お腹も満たされ、天候も素晴らしく、街をそぞろ歩くだけで心が弾んでくる。喧騒も心地良く感じられるリスボンの街に、ジャカランダの香りが充満している。こんないい匂いのする街に、一人でいるのがもったいない感じがする。観光客は皆、最低でも二人連れ。ここへ来て初めて、連れがいるといいのにと思う。

 両腕の荷物と靴擦れ寸前の足で坂道を上ってホテルまで帰るのは億劫だったので、地下鉄に乗ってみることにする。ヴィヴァ・ヴィアジェンという素敵な名前のプリペイドカードを買うと、地下鉄やバスや市電など全ての乗り物で使えるとのことなので、発券機で買ってみる。適当にタッチパネルを触っていると、イングリッシュという文字が出て来たのでその部分にタッチし、案内に沿ってヴィヴァ・ヴィアジェンを購入する。

 すとんと出て来た黄緑色のカードは、ポイントカードのような紙のカードで、これで本当に大丈夫なのだろうかと訝りながら自動改札のタッチ部分に触れてみると、ちゃんと扉は開いた。これがあれば、リスボンの街を自由に動き回れる。ペラペラの紙のカードが魔法のカードのように思えた。

 地下鉄バイシャ駅から三つ目、マルケス・デ・ポンパル駅で降りて地上に上がると、もうすでに馴染みになったエドゥアルド七世公園に出る。公園を少し上り、ホテルに帰ると、相変わらず上品なドアマンやベルボーイが、お帰りなさい、マダム、とにこやかに出迎えてくれる。
 部屋へ戻り、買ってきた夏服をベッドに広げ、私は一人でファッションショーをする。とても素敵なリスボンで、私はすっかり浮かれていた。

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