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アパートメント紀行(24)

エクス・アン・プロヴァンス #2


 目覚まし時計の音で起きた久しぶりの朝、果物とパンをちょこっとだけ口にして、少し緊張しながら身支度をする。授業は朝九時からだけれど、初日はクラス分けのための面接やら簡単な試験やらがあるらしいので、少し早目に行かなくてはならない。試験を受けるまでもなく、一番下のクラスだとわかりきっているのに、それでもなんだかどきどきする。忘れ物はないだろうか。

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 眩しい朝陽を浴びながら、学校へ行く。昨日は閉まっていた門が開いていて、門の周辺にわらわらと、様々な人種の老若男女がいる。
 玄関を入り、受付へ行く。手続きを済ませると、大きな名札と、資料の入ったバインダーを渡されて、二階へ行くようにいわれ螺旋階段を上ると、二階には溢れんばかりの人がいて、人々の流れに押され、ベランダへと出てしまう。
 喫煙所にもなっているベランダには、今日から入学する人たちがたくさんいて、新入生たちは、お互いの名札を見ながら恐る恐る名前を読んで声を掛け合い、どこの国から来たの? よろしくね、という会話が繰り返されている。

 ほとんどは英語で為される会話を、たまにフランス語で行う人たちもいて、きっとその人たちとはクラスが全然違うだろうから、話すのは今日限りかも知れない。学校案内にあったように、確かに年配の人が多い。そして黒髪率が少なく、うつくしい金髪の人が多い。

 私は、南仏にある語学学校の中から、生徒の年齢層が高い学校を選び、日本の仲介業者に、入学手続きの代行と借りる部屋を斡旋してもらった。旅立つ前に、分厚い入学案内書をもらっていたけれど、それは英語で書かれていたから、ほとんど読まずにここまで来てしまった。私は、取説を読まないタイプだ。

 二階にある教室の入り口に、十人ずつくらいの名前が張り出されていて、きっとそこへ入れということだろうと思い、自分の名前のある教室へ入った。教室には、随分若い女の子が一人だけいて、その若さで目立っていた。ほかの人たちは多分、四十代から六十代、中には七十代の方もいるようで、学校というより、カルチャーセンターのような感じだった。

 ベルが鳴り、先生と思しき人たちが資料を抱え、フランス語で何かいいながら各部屋へ入って行くのが見えた。私のいる教室にも、コーヒーを手に持った、若くてきれいな先生が入って来て、荷物を机に置いた彼女が教室のドアを閉めると、もう一度ベルが鳴る。

 先生が自分の名前を名乗り、ええっと、教室では基本的に英語は禁止ですが、今日だけは英語で話しますといって、ホワイトボードに今日の予定を書き始める。九時から十時半まで試験、十一時から十二時半まで街の観光案内、十四時から十五時半まで授業。

 書き終わったら今度は、一枚の紙を手に持ち、表と裏、両方に書いてくださいねといって、クラス分け用らしいプリントをみんなに回す。そして、順番に名前を呼びますから、呼ばれた人は別室で私と口頭テストですといって、最初の人と一緒に教室を出てゆく。

 残された人たちは、何やらフランス語で書かれた質問に答えるべく一瞬だけしんとなるが、ずっと静かにプリントと向き合っていたのはほんの数人で、あとの人たちはすぐに顔を上げ、きょろきょろと周りを見回し出し、目が合うとお互いに肩をすくめ、中には自分が書いたプリントをひらひらと見せ、名前だけしか書けないわよとおどけて笑っている人もいる。
 かくゆう私ももちろん名前だけしか書けないし、ウィ、ムシューということは出来ても綴りは書けない。こんなレベルで入学してもいいのだろうかという疑問は、今、楽しそうにきょろきょろしている人たちを見て消えた。教室の壁に、幼稚園児が描いたようなイラストが貼られているのを見つけ、ああ、このレベルならなんとかなるかも知れないと思った。

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 豊かな金髪のショートカットの女性が、透き通るようなブルーの瞳に笑みをたたえ、興味深そうに私を見ている。私と微笑み合った後その人は、隣席の女性を見るよう視線で促す。彼女の隣りの、やはりうつくしい金色の長い髪の女性は、配られたプリントを見事に無視していて、自分のタブレットに学校のWi-Fiをつなぐのに必死になっている。その様は非常に面白くて、ショートカットの女性と私は、くすくすといつまでも笑い合っている。

 そんなやり取りで、緊張していた気持ちも随分とほぐれ、アジア人が見当たらない学校の中にいる不安感も消え、ずっと以前から自分も西洋人だったかのような錯覚を起こす。テレビで観ていた外国のドラマの中に入り込んだような感じがして、だんだんと私語が増えて賑やかになってきた教室の中が、自分の正当な居場所のように思えてくる。

 教室のドアが開き、私の名前が呼ばれ、若い女の子と交代で隣りの小部屋へ入ると、先生はまずフランス語で話しかけてきて、私が挨拶しか出来ないことがわかるとすぐに英語に切り替え、単なる世間話のような会話を少し交わしただけで口頭テストは終わった。

 ますます賑やかになっている教室へ戻ると、どうだった? というようなたくさんの瞳にやさしく迎えられ、私は肩をすくめてみせる。いつの間に、私は肩をすくめられるようになったのだろう。学校へ来てまだ一時間も経っていないのに、私はすっかりここに順応している。

 全員の口頭テストが終わり、プリントも回収され、ベルが鳴る。
 では十一時に玄関に集合してくださいね、先生はそういって教室を出る。
 私たちは荷物をまとめ、机で隔たっていた距離を縮め、胸につけた名札の名前を発音し合いながら握手をする。
 よろしくね、私はスウェーデンから来たの、私はアメリカ、私はノルウェーよ。スイス、ロシア、アルゼンチン、トルコ、エトセトラ。生徒たちの国籍は様々だったけれど、もう不思議な連帯感に包まれていた。

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 校舎から外へ出て、わいわいと賑わっている新入生たちの中に、アジア人らしき若い男の子を一人発見する。そばへ寄って行き、日本人? と聞くと、ええ、そうですと笑ってくれたので、私はちょっとホッとする。

 早口の日本語で、お互いに自己紹介をし、私と同じ一ヶ月間、彼もこの学校へ通うことが判明する。小菅くんというその男の子は、仕事でアフリカへ赴任することが決まっていて、急いでフランス語を習得しないといけないらしく、会社から与えられた三ヶ月の期限内で、自分で選んだ学校に通って勉強しているのだという。もうすでに一ヶ月、別の語学学校へ通ったという小菅くんは、きっと随分上のクラスへ行くのだろうけれど、れっきとした同期生だ。たった一ヶ月間の学校だけれど。

 今日から入学した年齢層の高い生徒たちの中で、私はちょうど真ん中くらいに位置している。二十代から七十代、ひょっとしたら八十代の方もいるかも知れない。その不思議な集団が、学校の玄関に集まり、テンション高めにお喋りに興じている。スタッフが声を張り上げ、こっちが英語で案内するコースであっちがフランス語で案内するコースでーす、と何度も繰り返しているが、その声は、新入生たちの賑やかな笑い声に掻き消されてしまう。

 地元の歴史研究会のボランティアによる街の観光案内が始まるというのに、スタッフのいうことなんか全然聞いていない集団が可笑しくて、英語コースに入った私と小菅くんに、ねえ、こっちはどっち? と聞いてくるマダムたちが面白い。
 小菅くんが、学校の前のバス停にきちんと並んでいる子供たちを見ながら、なんか子供より騒がしい集団ですねえと笑い、本当にその通りだと私も思う。年齢を重ねてはいても、にわか一年生になったのだから、楽しくてしょうがない気持ちは私も同じだ。

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 先を行くフランス語コースは早々にまとまって行儀よく歩いているのに、英語コースはいつまでたってもまとまらなくて、それで少し歩みが遅れ、いつの間にか英語コースはフランス語コースを見失う。

 照りつける太陽を遮る街路樹の、生い茂った葉がわさわさと揺れるたび、エクスの古い街並みは木漏れ陽を受けて輝く。絶え間なく続く蝉の大合唱も、天高く突き抜けていくので、耳障りになることなく柔らかいBGMとなっている。プロヴァンス地方のお土産は、蝉をモチーフにしたものが多いのですとガイドさんがいっている。

 五分も歩かないうちに二つの噴水を通り過ぎ、三つ目の噴水の周りで私たちは話を聞く。エクスの語源はラテン語の水、アクアからきているという。街の至るところに泉が湧き出していて、温泉の湧き出す噴水もあり、紀元前ローマ時代のガイウス・セクスティウス・カルウィヌスという偉い人が、ここを「アクアエ・セクスティアエ(セクスティウスの水)」と名づけたことがその起源らしい。

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 また歩き出してすぐに、今度は足元を見るようにといわれる。歩道に、小さなCと書かれたブロンズのタイルが埋め込まれている。これは、セザンヌのC。街中に埋め込まれたこのエンブレムプレートを辿って行くと、セザンヌの生家やアトリエなど、セザンヌの足跡を辿ることが出来るらしい。

 古い裁判所の前で、エクスには歴史ある法科大学があり、そのほかにもたくさんの高等教育機関があり、それゆえエクスは知的な上流階級が暮らす街になったのですという説明を聞く。

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 それから一行は、常設だという朝市をくぐり抜けて大聖堂へと向かって行くが、だんだんと集団はばらけてくる。市場のあちこちで、果物を買ったりパンを買ったりしている生徒たちがいて、そのてんでばらばらな個人行動を見ているうち、私もだんだんガイドさんの話を聞かなくなり、フランスで最も古い洗礼堂があるというサン・ソヴィール大聖堂の手前の生チョコ屋さんで、ピンクのエプロンをつけたお姉さんたちから、試食用のチョコレートをもらって舌鼓を打つ。

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 一緒に生チョコを試食していたマダムの一人が、ねえねえ、こっち、と私の腕を取り、来た道を逆走し、このレストラン素敵じゃない? と、大きなプラタナスの木陰にあるレストランのテラス席を指差す。そして、お腹空いたわね、と私の顔を見る。私は即座に同意する。

 語学学校のガイドツアー一行は、今、大聖堂の前にいる。再びチョコレートをもらってから一行に追いつき、説明を聞いているふりをしながら、ねえ、まだこのツアー続くのかしら? あそこのレストランでランチにしましょうよ、もう観光なんかいいわよね、という二人の金髪のマダムからランチに誘われて、私が承諾すると、マダムの一人がガイドさんの隣りで暑さにうんざりしている風の学校のスタッフに交渉に行った。

 ねえ、これ、あとどのくらいかかるの? お腹空いたからお昼にしたいんだけど、ねえ、学校への帰り道はわかるからここで抜けていいかしら?
 マダムが真面目にスタッフに交渉している様子を見て、小菅くんがくすくす笑っている。

 あと二十分くらいで終わるからそれまで待てませんかという困り顔のスタッフを無視して、あら、もう承諾は取ったわよ、というような顔でマダムたちは歩き出す。さあ行きましょうと無邪気に腕を取られ、私も一緒に歩き出す。ふくよかな若い女の子が、あ、私も行きますと合流し、すごく真面目そうに見える家庭教師風の年配の女性も、そうね、お腹空いたわよねえといいながら合流する。

 学校のスタッフから、午後二時には授業が始まるからそれまでには帰って来てくださいと、何度も何度も念を押され、私たちは木漏れ陽のうつくしいレストランのテラス席に座った。

 にこやかなウェイトレスがすぐにメニューを持ってきて、今日のランチの説明をする。私たちの誰もがフランス語を解さないのを知ると、ウェイトレスはすぐに言語を英語に切り替える。スウェーデン人二名、ノルウェー人一名、アメリカ人一名、日本人一名。目下の共通の感心事は、魚にするか肉にするかパスタにするかピザにするかである。それぞれがオーダーを終えると、水を飲んでホッと一息。ワインを飲もうと誰もいい出さなかったことに感心した。

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 ちゃきちゃきとしていて、周りの空気を読むことに長けているリーナはスウェーデン人。本当はもう少し長い名前なんだけど他国の人には発音が難しいからリーナと呼んで、という。ショートカットの金髪がきらきら光り、吸い込まれそうな碧い瞳は、常に楽しいことを探しているように生き生きと輝いている。
 
 ハリウッド女優のようなエマはアメリカ人。長いブロンドの髪ときれいな歯並びが印象的で、私にはドラマの中の登場人物に見える。全く周りのことを気にしないマイペースな人だ。

 随分若いアルヴァは、リーナと同じスウェーデン人。私太ってるから、というのが持ちネタのようで、でもダイエットは出来ないの、食べるの大好きだからといい、一番長くメニューを眺めていた。

 ノルウェー人のトーヴェは、一番の年長者で、厳しい教師風の外見とは裏腹に、笑うと途端に悪戯っ子のような親しみやすい目になる。ずっと美術関係の仕事をしてきたそうだ。

 リーナとトーヴェは二週間コース、その他の三人は一ヶ月コース。若いアルヴァはホームステイをしていて、年配者はみんなアパートを借りている。
 
 アメリカ人のエマが、アパート問題についてみんなに意見を求めてくる。どうやらネットで借りたアパートが、ネットに出ていた写真より相当古くて使い勝手も悪いらしく、話が違うわと怒っている。それを聞きながらリーナが小さな声で、ディスイズアメリカ人だわ、と私にいう。すべてのアメリカ人が権利を主張するわけではないと思うけれど、契約違反がどうのこうのといっているエマに、同じ感想を持ったことは否めないけれど、文句をいっている様が可愛らしくて、聞いていて笑みがこぼれる。

 ランチが運ばれてくると、エマは、サラダに入っているベーコンに顔をしかめ、あなたベーコン好き? と私に聞く。好きだと答えると、あっという間に自分のお皿のベーコンを私のサラダに入れ始める。その悪気のない無邪気な行動に呆気にとられて黙って見ていると、その様子を見ていたリーナが、可笑しくてたまらないという感じで笑い続けている。

 私がずっと旅をしていることに全員が興味を持ち、どこへ行って来たの? この後どこへ行くの? と矢継ぎ早に質問が飛んでくる。私は自分が行って来た土地のことを話し、これからモロッコやチュニジアやメキシコやキューバへ行こうと思っていると話すと、ノーノー、ダメダメとみんながいう。そんなところ一人で行ってはいけないわ、行くのならボディガードになる男を連れて行かなくちゃ、これまで行ったイギリスやポルトガルやスペインならいざ知らず、これから行こうとしているところは女一人では危険よ、という。
 
 それから話題は結婚しているかに移り、若いアルヴァ以外全員が、二度結婚しているということが判明する。リーナとトーヴェは二度目のご主人とうまくいっていて、どちらの旦那さんも、二週間の語学学校が終わる頃にエクスへやって来て、その後一緒にヴァカンスに行くそうだ。
 
 私とエマは、二番目の夫ともすでに別れ、独身の気楽な身。でもあなたの最初の旦那さんは亡くなったのでしょう、それなら離婚は一回ってことよ、とリーナが真面目な顔でいう。若いうちに未亡人になると、その後の人生は大変だったでしょうと同情してくれる。

 死別も離別もたいして変わらないと思って生きてきたけれど、そういってもらえると気分が少しラクになる。出会って数時間だけれど、私はリーナのことが大好きになる。

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 ランチを終えて学校へ戻ると、クラス分けの紙が張り出されていた。案の定、私は一番下のクラスで、クラスメートとなる八人の中に、一緒にランチをした全員が入っていて大笑いした。

 午後からの授業は、自己紹介程度で終わるのかと思っていたけれど、意に反し、ちゃんとプリントを使っての初級フランス語のレッスンだった。熱心に教えてくれる感じのいい女性の先生が、授業中は英語禁止ですと宣言したにも関わらず、生徒たちのあまりにも低いフランス語理解力に根を上げ、自ら英語を使い始める。このクラスは特別です、内緒ですよ、明日からは英語は禁止ですからねといいながら笑っている。

 一時間半の授業が終わり、リーナが、ねえねえ、明日の授業はフランス語のメニューの読み方に変えてもらいましょうよといい、エマは、それよりこのコピーのプリント嫌だわ、先生が使っているカラーの教科書をどうして売ってくれないのかしらという。私は、この人たちに出会えて本当に良かったと思っている。
 ねえ、お茶して帰りましょうよと誘われて頷きながら、初日にしてもう、この二人とずっと友達だったような気がしていた。

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