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アパートメント紀行(18)

バルセロナ #2


 ラグジュアリーなホテルの部屋の、キングサイズのベッドの真ん中で目を覚ます。ベージュのカーテンの隙間から、きらきら光る朝日のかけらが部屋の中に差し込んでいる。
 今日の予定は、午前中にサンツ駅へ行き、ニースまでのチケットを買うこと、そして午後から地中海遊覧船に乗ること。

 もう少し寝ようと目を瞑ると、次に起きた時にはもう十時を回っていてびっくりした。この部屋で、私はいくらでも眠れそうだ。ゆっくり起きて、ゆっくり身支度をし、ゆっくりホテルを出る。
 
 ホテルの外で、チェックアウトしたお客さんを見送っているミゲルと出くわし、おはよう、と日本語でいう。日本語を話したくてうずうずしているミゲルは、嬉しそうに笑い、今日はどこ行きますか? と聞いてくる。これからサンツ駅へ行きます、というと、タクシー呼びますか? というので、お願いします、という。

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 サンツ駅のチケット売り場は長蛇の列で、番号札を取ってから、駅のレストランで食事をしようと構内を物色する。
 マドリードのアトーチャ駅とは違い、サンツ駅はあっさりとしている。マクドナルドがあり、FCバルセロナのオフィシャルショップがあり、スーツケースを売っているお店があるくらいだ。
 色とりどりのトランクが並んでいるお店を覗くと、思ったより安い値段で売っていて、もうだいぶくたびれて車輪が一つ壊れかかっている私の古いトランクを、バルセロナで新しいのと交換してもいいかなという気になる。

 いい匂いのする方向へ歩くと、まるで社員食堂のような食堂があって、好きな惣菜をトレイに乗せて会計するシステムのそれは、あれもこれも食べたい私にはもってこいの食堂だったから、サラダやパエリアやコロッケやオムレツやチョリソーやデザートまでをたっぷり乗せて会計すると、結構いい値段になってしまったけれど、いつものように、観光客は地元にお金を落とすべきなのだと思って気を取り直す。

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 トレイを持ってうろうろ、どのテーブルにするか決めかねていると、窓際に座っているアジア人と思しきご夫婦が、私の方を見て笑いかけてきて、こちらにおいでと手招きをする。
 テーブルへ近寄り、こんにちは、といってみると、おー、日本語話せるの? と片言の日本語で聞かれる。

 台湾人のフェイさんと奥さんは、私がサラダやパエリアをよそっている様子を見ながら、彼女はアジア人だろうかスペイン人だろうかミックスだろうかと話していたらしい。
 純粋の日本人ですと私がいうと、あなたはスペイン人にも見えるねえと、片言の日本語でフェイさんがいう。奥さんは日本語がわからないので、英語と日本語での楽しい食卓となる。
 
 フェイさんご夫婦は、世界中を旅していて、これからリスボンへ向かうそうだ。私が先週リスボンからマドリード経由でここへ来たというと、リスボンのことをいろいろ質問してくる。それからお二人はよく日本にも行くそうで、箱根の温泉が好きだという。
 
 私たちはすっかり意気投合し、まるで一緒に旅をしてきたかのように世界中の都市の話をし、チケットを買うための長い待ち時間はあっという間に過ぎる。
 窓口で、まずはフェイさんたちの順番がくる。フェイさんたちは、チケットを手にすると、またどこかでお会いしましょうといってホームへ向かって行く。さようならあと見送りながら、私は、まるでここに住む私を訪ねてくれた叔父夫婦を見送っているような気持ちになる。

 さて、私の順番がくる。サンツ駅からニースまでのチケットを買いたいのだけれど、それは出来ないようだった。ここでは、フランス西部のモンペリエ駅までしか買えないといわれる。その先は、フランスの国鉄駅で買わなければいけないらしい。ユーレイルパスというのを事前に日本で買っていたら、その先まで買えたらしいのだけれど、面倒くさいからパスしたのだった。

 でもとりあえずモンペリエまでは買えたので、その先はネットで予約することにして、駅前のタクシー乗り場からタクシーに乗り、一度ホテルへ帰り、チケットを部屋のセーフティボックスに仕舞い、さあ、海へ。
 
 昨日通ったのとは別の道で、どんどん海へと下って行く。小さな路地や住宅街を通りながら、リスボンで見たような色とりどりの飾りつけが街のあちこちにあるのを発見する。もしかしたらまたお祭りが近いのかも知れない。

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 地中海は、何度見てもうつくしい。うんと若い頃に初めて地中海を見た日から、私は地中海を愛している。バルセロナの快晴の空が、穏やかな地中海を目の覚めるようなブルーに染め、まぶしい太陽は、沖合の淡いブルーまでをきらきらと輝かせている。

 遊覧船乗り場でチケットを買い、真っ白いクルーザーに乗り込む。屋根のない二階席に座り、出航を待つ。岸壁にぶつかって船底に潜り込む微かな波が、ゆらゆらと心地よく船を揺らし、出航を歓迎しているかのように思える。

 陽気なクルーが、今日はとても天気が良いから楽しい船出になりますよといいながら、乗客の数を数えている。エンジンが始動し、岸につながれたロープがほどかれ、いよいよ出航。

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 湾内を静かに航行する船上から、湾岸の眺めを堪能していると、突然、船が速度を上げる。帽子を飛ばされそうになり、慌てて帽子を手に取り進行方向を向くと、船は全速力で沖へ向かっている。同じように帽子を脱いだ前の席のアメリカ人ご夫婦と目が合い、笑い合う。
 
 風に吹かれ、海の上を走る快感。そしてここは地中海。エンドルフィンが体内を駆け巡る。誰も彼もにこにこと笑みを浮かべている。得もいわれぬ喜びでなぜか泣きそうになる。たかだか観光船に乗っているだけだというのに。

 穏やかに見えていた海も、沖まで出ると少し波があり、ぱしゃんぱしゃんと跳ね上がる波飛沫が、太陽に痛めつけられつつある肌に当たって気持ちがいい。くっきりとした水平線はどこまでも続いていて、漁船もタンカーも見当たらない海は、今は私たちの乗っている船だけが漂流物。ああ、このままずっと海の上に漂っていたい。

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 若い女性のクルーが、乗客を写真に撮って回っている。大抵の乗客は夫婦か家族連れなので、私のところに来たクルーは、さっきからこちらをちらちらと眺めているちょっと渋めの中年男性と私を、喧嘩でもしたカップルだと思ったのか、彼を見ながら一緒に撮る? と聞いてきた。
 私は笑って、私は一人だといい、満面の笑みで写真に収まった。クルーの言動をきっかけに、その一人で乗っている中年男性がこちらへ近づいてくる。この人はなぜ一人で乗っているのだろうと思い、あ、私も彼にそう思われているのかと気づく。

 二つ後ろの席に座った彼が、海の写真を大きなカメラで撮りながら、こちらに意識を向けているのがわかる。私も写真を撮りながら、彼に意識を向けている。ふと、中学生の頃の修学旅行でフェリーに乗った時のことを思い出す。そんな記憶があったことさえ忘れていたけれど、あの時、好きな男の子と、こんな風にお互いを意識し合いながら、近づいては離れ、離れては近づいての繰り返しをしていたが、中年になった今、そうとは気づかないで甘い時間を過ごしていたのだなあと、少女時代を懐かしんだ。

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 どこの国から来たのか、何をしている人なのか、そんなことはどうでもよくて、錯覚でも構わないから、恋の始まりのような甘い感覚が、未だ自分の中から湧いてくることに感謝した。いくつかの恋をして、幸福感に酔い痴れて、いつしかそれが落胆に変わり落ち込んで、また立ち上がり恋をする。そんな甘美で絶望的な繰り返しから、もう逃れることが出来たかと思っていたけれど、生きている限り、それは続いていくのかも知れない。

 この高揚感が、地中海をクルージングしている喜びからなのか、淡い恋のような化学反応からくるのか冷静に考えて、あっさり前者だとわかったけれど、後者もひっくるめて楽しむことにした。

 つかず離れずの距離にいる彼と、お互いに多分その感じを楽しみながら、スローダウンした船の上で、日光浴を楽しむ。陸に視線を転じると、バルセロナの街は思っていたより大都会で、林立している高層ビル群が、海の上に立つ巨大な戦艦にも見える。
 船内放送が皆無なので、船上では、風と波とエンジン音しか聞こえない。乗客は、エンジン音の強弱と、舳先の向きで、自分たちの次の運命を知る。もう一時間以上沖にいる。エンジン音が強くなり、そろそろ帰る頃合いだと知る。

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 出航時には気づかなかったけれど、湾の端にフェリー乗り場とマリーナがあって、巨大な豪華客船が二隻停まっていた。なんでこんな豪華な客船に気づかなかったのだろうと不思議に思ったけれど、それはきっと出航時には、沖ばかりを見ていたからだ。私は常々、前ばかりを向き過ぎだといわれる。時々ちゃんと足元を見なければいけない。大切なことを見過ごしている可能性がある。

 船はゆっくりと船着き場に戻り、エンジン音が停止する。一時間半のクルーズは、私にはその二倍くらいの時間を楽しめた気がする。ぐずぐずと名残惜しく写真を撮っていると、気持ちの良いクルージングと共に私に甘い時間を与えてくれた見ず知らずの彼はもういなくなっていた。

 なんだか少しがっかりしながら船を降りると、クルーがさっき撮ってくれた写真を引き伸ばして五ユーロで売っていて、私は迷わず買ってしまう。一人旅だと自分の写真というものを見ることが出来ない。恐る恐る見てみると、思いっきり楽しそうで幸せそうな私が写っていて、思わずワハハと笑ってしまう。

 船着き場の隣りにある海の上の遊歩道を渡ると、旧港を再開発したポルト・ベイというウォーターフロントエリアに入る。ショッピングセンターや映画館や水族館があり、一大アミューズメントパークになっている。

 またお腹が空いたので、海から一メートルのレストランのテラス席に座り、ミートボールとパスタを食べ、コーラを飲み、大欠伸をする。
 食べながらガイドブックを読むと、今度の月曜日は、サン・ファンの日といって、夏の到来を祝うお祭りがあるらしい。月曜日は私がバルセロナを出発する日。リスボンと同じく、前夜祭が盛り上がるらしく、花火と爆竹の音で眠れないと書いてある。私は眠れないまま出発する羽目になるのだろうか。

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 スペイン人がすなるというシエスタをするためにホテルへ帰る。船上で、風によって帽子を脱がされ、太陽からの光と水面からの光の反射でダブル日焼けをしたため、相当に疲れてしまっていた。
 快適なベッドで二時間ほど眠り、疲れた身体と胃腸のために日本食を食べようと、昨日のお豆腐屋さんへ行くことにした。

 ほんのそこまで、というような感覚で地下鉄に乗ってお豆腐屋さんへ行くと、生憎お弁当は全部売り切れていた。ああ、残念、とがっくりしている私に、お豆腐屋さんの奥さんが、ご飯はあるから納豆ごはんにしたらいいんじゃない? あ、がんもどきもあるわよと、いろいろと見繕ってくれて、揚げたてのがんもどきとお豆腐と納豆とご飯を買って、おまけにつけてくれた鰹節のパックと、魚の形の容器に入った小さなお醤油を大事に持って、また地下鉄に乗ってホテルに帰り、テレビでクレヨンしんちゃんを観ながらテーブルに買ってきたものを広げる。

 久しぶりに食べるお豆腐の美味しいこと。納豆と、お豆腐にかけた鰹節の残りをご飯にかけて、お醤油をたらして食べる。揚げたてのがんもどきは、人生初スペインで食べた。
 テレビから流れてくる日本語とともに、バルセロナの夕日を見ながら、少し郷愁の念にかられる。旅はまだ半分も終わっていないのに、もう日本に帰ってもいいかなあなんて思うのは、お豆腐が美味しいせいだ。

 日本食を食べて心からホッとし、あとはお風呂に入って眠るだけ。こんな生活がいつまでも続けばいいのにと、さっきもう帰りたいなんて考えたことは忘却し、しんちゃんが話すちょっと下品な日本語のスペイン語字幕に視線を戻した。

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