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アパートメント紀行(31)

アンティーブ #1


 タマラは、フランスの電車はいつも遅れるから、何時に着きそうか途中でメールをしてほしいといった。親切にも、駅まで迎えに来てくれるという。

 仲介してくれた日本人夫婦によると、タマラは親日家のロシア人で、普段はモナコに住んでいて、週末や休日を過ごすためのアンティーブの家は、三世帯が住めるほど大きな家なのだという。

 この夏、プール側の部屋は、タマラのご両親が滞在する予定が入っていて、私が借りられるのは裏側の部屋だったけれど、でもプールは自由に使えるし、静かでいい部屋ですよとのことだったので、予算は少しオーバーしたが、このあと行くつもりだった国々を端折ったので問題はなかった。
  
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 TGⅤの地中海線に乗るのは何度目だろう。すっかり見慣れた景色なのにやっぱり見飽きない。次のカーブを曲がると、巨大なリゾートホテルが見えてくる。次の駅のホームには、ちょっといただけない落書きがある。
 
 華やかなカンヌを過ぎると、小さな駅をいくつか通過してニースへ着くが、その小さな駅の一つ、アンティーブ駅で下車する。アンティーブの駅のホームは舗装されていなくて、トランクを二つ、上手に転がして歩くのに苦労した。

 小さな改札を出ると、気の良さそうな女性が、私の名前をスケッチブックに書いて掲げ持っていてくれた。タマラだ。
 私たちは挨拶を交わし、大きい方のトランクを持ってくれようとするタマラと、いやいやこっちは重いから持っていただけるのなら小さい方のこっちでと、よくレストランの会計時に見かけるおばさんたちのように、私が私が合戦をやり、結局は私が負けて、大きい方のトランクをタマラが転がし、タマラが車を停めているところまで、小さい方のトランクを転がしながらついて行った。

 タマラは英語があんまり得意ではなく、私はフランス語が得意じゃないので、初めはなかなか会話がうまく出来なかったけれど、しばらくすると、私はタマラのロシア語訛りの英語に慣れてきた。

 車を走らせながら、こっちへ行くと海岸、あっちへ行くと大きなスーパーマーケット、と街の案内をしてくれるタマラ。あ、あそこのパン屋さんは美味しいのよ、そうだったわ、パンを買わなきゃ。それからあそこがバス停ね、あ、あとで時刻表を調べないといけないわ。
 タマラのお喋りは、私にいっているのかタマラがタマラ自身にいっているのかわからなかったが、どうやらタマラは表裏がなく、思ったことがすぐに口に出るタイプのようだった。

 結構な山道を登り、一軒一軒が立派な屋敷街の奥に、タマラの素敵な家はあった。リモコン操作で瀟洒な門が開き、玄関を過ぎて家の裏手まで行くと、車が五、六台は駐車出来そうなスペースがあって、タマラの家は、正面から見るより裏から見る方が断然大きかった。タマラは車を停め、ミキの部屋はここね、と階段の上を指差す。

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 階段を登り、鍵のかかっていなかった濃いピンクのドアを開けると、二LDKの広い部屋が現れる。結局また重い方のトランクを持ってくれたタマラが、トランクを置き、次から次へと部屋の説明をしてくれる。はい、キッチン、はい、寝室、はい、リビング。
 それからウォークインクロゼットの隣にある扉を指差して、ここから母屋につながるの、でも明後日から私の両親が来るから、ここの鍵は閉めておくね、といった。

 この広大な家が、どんな仕組みになっているのか全然わからなかったけれど、プールへは、裏からも行けるようだった。残念ながら部屋に浴槽はついていなかったが、プールの横にジャグジーがあるらしいので問題はない。

 浴室に、山のようにタオルが置いてあり、ベッドルームには、山のようにシーツがある。それらが全て不揃いであることが新鮮で、プロの部屋貸し業ではないタマラの、精一杯のおもてなしに思えて心が温かくなる。

 タマラは私の視線を追いかけ、あ、タオルもっといる? シーツもどんどん使ってね、あ、それは洗濯機、物干し台はここ、アイロンもここにあるわと、一生懸命説明をしてくれる。その過剰なほどの気遣いが嬉しくて、まるで親戚の家に来たかのような安堵感を覚える。

 一通り説明し終えると、タマラは腕時計を見て、じゃあ、一時間くらい休憩してね、それから買い物へ連れて行くわね、という。
 私がキョトンとしていると、だって食料をたくさん買わなきゃいけないでしょ、じゃあ一時間後にね、といって部屋を出て行こうとする。

 あ、ちょっと待ってください、お支払いを、と私がいうと、ああ、あとでいいのよと、タマラは妙にそわそわする。いえ、今お支払いします、と私がいうと、そう、わかったわ、とタマラはなぜか神妙な面持ちで現金を受け取り、ありがとうと日本語でいった。
 お節介で気のいいタマラは、部屋代を受け取ることに馴れていないように見え、多分、メールでやり取りした日本人夫婦のいう通りにしているだけなのだろうと思われた。

 じゃああとでね、というタマラに、ありがとうと日本語でいうと、タマラは、私の娘が日本語を勉強してるの、よかったら教えてあげてね、といった。

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 ゆっくりと荷解きをし、私は部屋を入念に見て回る。全体的に、家の造りと家財のバランスが悪いような気がする。家の造りは、淡いサーモンピンクとベージュが基本となった典型的な南仏の豪邸なのだけれど、なんだろう、家具や家財が寄せ集め的なのだ。まあ、タマラはフランス人ではないし、インテリアの好みは人それぞれだから、全てのフランスに住む人が、インテリア雑誌に載っているような部屋に住んでいるわけではない。

 田舎の親戚の家に来たような気分になるのは、この部屋のインテリアのバランスの悪さと、全力でもてなそうとしてくれるタマラの心遣いのせいだと思った。美的センスの偏った私だが、なぜだかここは非常に居心地が良かった。

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 きっちり一時間後、私たちはタマラの日本車に乗って買い物へ出かける。タマラのご主人はモナコ人で、モナコで仕事をしているので、次の週末までこちらへは来ないらしい。一人娘のルドゥミラは小学生で、夏休み中はずっとここにいるらしいけれど、今はお昼寝中。

 二つも家があると大変なのよとタマラがいう。タマラはモナコでレストランを経営していて、先週からお店も夏休みに入り、三日前にやっとアンティーブの家へ来たばかりで、掃除が行き届いてなくてごめんなさいという。多分、タマラの性格上、お手伝いさんを雇うという発想はなさそうだった。

 この道を下ると十分で海へ出るのよとタマラが教えてくれた道は、車の入れない細道で、その道を通り過ぎ、きれいに舗装された車道を何度もぐるりと大きく回って山道を下ると、やっと海岸沿いの道へ出る。もしかしたら歩いて下る方が早いかも知れない。

 ウチから一番近いショッピングモールはここなのといって、タマラはショッピングモールの地下駐車場へ車を入れる。エレベーターを使って一階へ出て、スーパーマーケットはここねといいながら、タマラはどんどん先へ進んでゆく。どこへ行くのかと思ってついて行くと、あ、海、見るわよね、と私を振り返っていう。

 土曜日だというのに閑散とした小さなショッピングモールを抜け、ヴァカンス用のマンションだというモダンな建物の脇を通り、TGⅤの線路をくぐると、いきなり海が現れた。タマラが嬉しそうに私を見て、地中海、という。

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 急に眼前に現れたほとんど裸の人たちは、キラキラと輝く地中海の恵みを全身に受け、ごろごろとビーチに寝転がったり海で泳いだりして真夏を堪能している。エクスではもう夏が終わりかけていたから、ほんの二時間ちょっと電車に乗って南へ来ただけで、こんなにも季節が違うのかと驚いた。
 
 永遠に続いているようなビーチで、タマラが右を指差して、あっちがカンヌ、そして左を指差して、こっちがニース、という。

 カンヌ方面に傾きかけている太陽が、私たちの影を砂浜に描き出している。私たちは影のない方へ歩いて行く。サンダルについた砂を払いながら、今度は線路を越え、海岸沿いの国道を渡り、ショッピングモールへと戻った。

 戻って来たスーパーの前で、タマラは、じゃあ、と腕時計を見て、三十分後の四時にここで待ち合わせね、といって突然いなくなる。どこへ行ったのだろうと思いながらも、急いでスーパーを回り、二、三日分の食料と水やジュースを買い込み、レジ袋に仕舞いながら、さすがタマラだ、これだけの荷物を持って一人で山道は登れなかったなあと感心する。

 二十五分後にスーパーを出ると、タマラはもう出口で待っていて、早速私の荷物を半分持とうとしてくれる。大丈夫だと断ると寂しそうな顔になったので、軽い方の荷物を持ってもらう。
 地下へ行き、駐車場代を私が払おうとすると、ダメダメとタマラがいい、再び、私が私が合戦になる。結局またタマラが勝って駐車場代を清算し、私たちは車に乗り込んだ。

 ここ、さっき教えた美味しいパン屋さん、歩いて帰る時はこの道から登るの。パン屋が目印ね。あ、バス停の時刻表を写真に撮った方がいいわね。
 そういうタマラにバス停で車から降ろされて、私は時刻表を写真に撮りながら、タマラの英語が早口なのは、おもてなしの心が先走るせいだと気づく。

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 タマラに、さっき私が買い物していた間どこにいたの? と聞くと、タマラはちょっとためらったのち、友人がやっている美容院で世間話をしていたのといった。タマラは最高にいい人だ。

 タマラ邸へ帰り、車から荷物を降ろしていると、昼寝から起きたらしいタマラの娘が姿を見せて、日本語でこんにちはと挨拶してくれた。

 こんにちは、日本語を話せるの? と聞くと、ノン、少し、という。可愛らしい十一歳のルドゥミラは、日本のアニメが大好きで、私の名前はミキだというと、え、ミク? と顔を輝かせる。ううん、ミキ、というと、ミキ、私はミクが好きという。どうやらルドゥミラは、初音ミクという日本のバーチャルアイドルに夢中らしい。

 タマラと一緒にルドゥミラも私の部屋に入って来て、タマラが用意しておいてくれたアンティーブの地図をリビングのテーブルに広げ、みんなでソファに座って地図を見る。

 さっき通った道がここで、ウチはここ、アンティーブの中心部まではパン屋の前のバス停からバスに乗るの、ここがピカソ美術館、こっちの港からは船が出ていて、モナコまで行けるのよ。

 タマラは矢継ぎ早に話しながら地図に赤ペンで丸をつけ、一生懸命に説明してくれる。ルドゥミラも、この半島の先っぽに、ハリウッドスターの別荘がたくさんあるのよと教えてくれる。

 アンティーブは半島になっていて、半島の付け根のカンヌ側にタマラの家はあり、ニース側の付け根にアンティーブの中心部があり有名なピカソ美術館がある。タマラの家からアンティーブの中心部までの間に、ジュアン・レ・パンという街があり、そこに作家のフィッツジェラルド夫婦が滞在していたことから、アンティーブは、アメリカ人に人気のリゾート地となったのだという。ハリウッドスターの別荘は、海からしか見ることが出来ない海沿いにあるらしい。

 なんとなく位置関係がわかり、私が理解したらしいことをタマラは見て取り、ふっと顔をほころばせ、やっと一息ついたようだった。

 さあ、じゃあ今日はゆっくりしてねと、まだここに居たそうなルドゥミラを促してタマラは部屋を出る。ルドゥミラが、部屋を出しなに、プール見る? というのでついてゆく。

 裏(私の部屋の玄関)から庭へ出ると、住めそうなほど大きなサウナ小屋があり、その脇を通って正面へ回るとプールがあった。それはとてもうつくしいプールで、ネットの写真で見ていたより何百倍も素敵なプールに、うわあ、きれい、とため息をつく。

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 石造りのうつくしい流線型のプールは、ヤシやマツやオリーブなどの木々に囲まれ、奥が一段下がっていて、そこから水が滝のように下に流れる仕組みになっている。手前に置かれたデッキチェアに寝転がって眺めると、枠のない奥の滝の部分が、そのまま深い森へと続いているように見える。真っ青な空と木々の緑にしっくりと映える流線型のプールは、素晴らしい映画の中の大事なワンシーンのように印象的で、私はすっかりプールに魅了されてしまった。

 プールの横には同じ造りの小さなジャグジーもあり、タマラが、入りたい時は声を掛けてね、温めることも出来るからという。プールサイドのテーブルに、ルドゥミラが宿題をしていたらしい痕跡があって、私の視線に気づいたルドゥミラが、にっこり笑って算数の宿題を見せてくれた。ああ、そうだと私も気づき、ちょっと待っててと急いで部屋へ戻り、荷物の中から日本の切り絵セットや折り紙を取り出し、エクスで買ってきたお土産のカリソンと一緒に持ってプールへ戻る。

 切り絵セットをどうやって使うのか、私もよくわかっていなかったが、日本の紋様の型紙などが入っていて、それを使っていろいろな形を切り抜いて遊べるようだった。
 日本のアニメが大好きな子には面白いものではなかったかも知れないけれど、ルドゥミラは、初めて見る妙な形を見て大はしゃぎしてくれた。それから折り紙は知っているといい、学校の授業で習ったといって、お願い、明日ツルを折って、といった。うん、何羽でも折るよ、と私は請け負った。

 そろそろ夕方になる。今日一日の感謝の気持ちをタマラに伝え、プールの水を触ってから自室へ戻る。部屋を借りるだけのつもりだったから、こんなに親切にしてもらえるとは思ってもいなかった。なんて有り難いことだろう。プールの水はひんやりとして気持ち良かった。
 
 私は部屋で料理をし、シャワーを浴びる。豊かに流れるお湯を浴びながら、シャワールームの枠が三十センチくらいあることに気づき、ガムテープを取って来て栓に貼り、枠からこぼれないくらいにお湯を溜め、ちょっとだけ湯船気分を味わった。
 
 タマラが用意してくれたシーツをふんだんに使ってベッドを整え、いい感じに色褪せた寝室のワインレッドの窓の扉を閉める。まだ暮れない夜の空をシャットアウトして、早い眠りに就いてみようと目を閉じると、すぐに睡魔がやってきた。

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